Quantcast
Channel: りんごの木の下で
Viewing all articles
Browse latest Browse all 577

愛に濡れた黙示録 46

$
0
0
《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。






和矢ははぁはぁと息をつきながら、マリナ達の前に到着し、

「あれ、おまえ、マリナ……?」

マリナの姿を見て、薫と同様に目を丸くした。

「どうしてここにいるんだ?」

心底不思議そうに問いかけてくる。

「ああ和矢ってば、変わらないわ……」

そんな感慨がマリナの胸の片隅をかすめた。
和矢は一言で表すととてつもない美男子だ。鼻筋の通った彫りの深い顔立ち。襟足は短めで、前髪は長く垂らしたゆるやかなウェーブのくせ毛。そして若者らしいエネルギッシュな生命力にあふれた黒い目の配置も完璧で、口も耳も眉も、顔のどの部分品も文句なしにかっこいい。
けれど、そのかっこよさよりも、むしろTシャツとジーンズという夜の街に似合わないラフな服装のほうが、マリナには和矢を感じさせた。
ついにこの時がきた。パリ滞在理由を和矢に聞かれる時が。
彼に向き直り説明を始めようとした。が、これまでさんざん悩んだわりには結局ろくな説明を考えついていなかったため、しどろもどろになる。

「あの、なんであたしがここにいるかというと、それは、えっとね」
「いや、まて。説明はあとでいい」

和矢はマリナに左手をかざして静止すると、「とにかく響谷、ほら」
兄上を見据えて立ち尽くす薫に、バイオリンケースを「ほい」と差し出した。薫は無言でそれを受け取った。

「たいへんだったぜ。もうちょっとで没収されるとこだった」
「どういうこと?」

ため息交じりの言葉に、マリナが聞くと、和矢はネオンを見上げるようにして答えた。尖った喉仏がくっきりと闇に浮かぶ。

「最近飛行機の手荷物チェックは厳しいんだ。とくに楽器は搭乗前に職業楽器として登録しておかないといけないんだけど、響谷のヤツ、してなかったみたいでさ。入国税関で止められたんだ。それを響谷が強行突破しようとするから、職員がたちまち血相変えて。すげー大騒ぎになっちまったってわけ」
「じゃあ、あんたが?」
「そ。苦肉の策で、このバイオリンはオレのものだってことにしたんだ。でないと、時間に響谷が遅れちまうし。まあ、オレのほうも税関はうまく抜けられし、響谷も間に合ったみたいだからよかったけど……」

そこまで言って、和矢は一同に視線を走らせた。和矢は、一目でその場の異様さを見抜いたようだった。

「なんか、あった?」

誰も答えようとしない。兄上は彫像のようにうつむいたままだし、薫はバイオリンケースを抱いて険しい顔をしている。ジルは微笑しているが和矢に応答する気はないらしく、ミリアムに至っては未だ夢の中という顔だ。
仕方なくマリナは和矢に事の次第を説明した。このややこしい事態をどこまでうまく話せるか自信はなかったが、できるだけ努力はしたつもりだ。

「ふーん……」

和矢は腕を組み右手を顎の下において、下唇を突き出す。

「なるほど。ということは兄さんと響谷の間に障害はもうないってことだ。そこの女の子、ミリアムだっけ? 彼女の抱えている問題は片付いたんだろ? じゃあ、兄さんはもう心配しないでいいってわけだ」
「まぁそうなんだけど、あんたが考えるほど事態は簡単じゃないのよ」

そう言わずにはいられなかった。だが、和矢は眉一本動かさず、

「簡単なことだよ。兄さんも響谷も、あまりにも長い間離れてたから、基本的なことが見えなくなってるだけなんだ」
「え?」
「響谷、君さ。なんのためにそれ、持ってきたんだよ」

和矢は顎を支えていた手で、薫の胸元を指差した。そこには、つい先ほど彼自身が運んできたばかりの角型のケースがあった。

「あ……っ」

今気づいた、という顔で薫が小さな声を上げる。

「そうだよ」

意志の強そうな黒い瞳で薫を捉えたまま、和矢は頷いた。直後、すぐに薫は腰をかがめた。折った膝の上にケースをのせ、左手でさっとその鍵を開け、もう片方の手で楽器を取り出した。飴色のバイオリン。あれは確か、軽井沢のコンクールの際、兄上から彼女がもらったニコロ・アマティだ。

「そうだ。兄さん。あたしは兄さんにこいつを聴いてほしかったんだ」

和矢がすばやく空になったケースを預かった。

「薫、やめなさい!」

即座に兄上が叫んだ。

「ここがどこなのかわかってるのか! ニューイヤーに選ばれたソリストが、こんな場所で演奏したと公になったら、どうなると思ってる?」

珍しく感情を表に出して声を荒げる兄に、薫はピンと背筋を伸ばして答えた。

「ちゃんとわかってるよ。なんせ格式が大好きな連中だ。たぶん、クビになる」
「わかってるなら、今すぐにバイオリンをしまいなさい!」
「いいんだ。クビになっても」
「バカなことを言うものじゃない。一体どれだけの人間がおまえのように活躍することを願いながら、音楽の道を断念したと思う? おまえは自分の力でそのチャンスをつかみ取ったんだ。それをこんな形で放棄するなんてゆるされないことだ!」
「うん。そうだね。兄さんの言ってることは正しい。あたしだって、ニューイヤーを獲るために死ぬほどがんばったし、それが叶ってうれしかった。もし取り消しってことになったら、結構キツイとは思うよ」

薫は一度やわらかに兄上の言葉を肯定してから、

「でもね。やっぱりあたしは兄さんのためにバイオリンを弾きたい。どうしても、今ここで」と微笑んだ。「あたし、小さい頃から教わったからさ。その人の心のあるところ、音楽はあるんだって」

兄上は息をのんだように動きを止めた。薫はかしこまり頭を下げた。まるでコンサート前のお辞儀のように。待ってました、とばかりに和矢がパンパンと手を叩いた。
それから薫はバイオリンを弾きはじめた。マリナもよく知っているグノーのアヴェマリアだ。耳慣れた曲である。

「すごいわ……」

思わずマリナは声を上げていた。

「うん、やっぱすげぇ」

和矢が隣で何度も頷いた。
アヴェマリアとはこういう曲だったのかと思い知らされた。
薫のバイオリンはこれまでに何度も聴いてきた。その度に感動してきたし、彼女の才能はもちろん認めていたつもりだ。しかし、今夜の薫は次元が違った。高潔と呼べるものを感じたのだった。
これまで薫が歩んだ人生を思い出した。実の兄上を愛した時から、自らの人生はいばらの道であることを知りながら、薫はその道を歩くことを選んだ。数え切れない困難の中で、薫は忍耐を学び、立ち向かうことの意味を知ったのだ。そしてひとすじの希望を見続けてきたのだ。
そんな薫だからこそ、選んだのが、このアヴェマリアなのだろう。
決して技巧的な曲ではない。テンポは鼓動よりも若干早い程度。宗教的な清廉さに満ちたメロディだ。それを薫は、深い情熱を感じさせる音で見事に歌っていく。
これが薫の愛なんだ……マリナは泣いた。涙が後から後から止まらなかった。
アヴェマリアが終わると、マリナの知らない曲がはじまった。今度は弓が激しく上下に動いた。一心に弾く薫の姿は、ネオンがきらめく夜の闇に炎のように燃え上がった。
ふと気がつくと、周りに人だかりができていた。それまでマリナ達の騒ぎを遠巻きにやりすごしていた人々だ。皆、『ざくろ通り』の客だった。彼らの目に、娼館の前でバイオリンを演奏する薫はどう映っているのだろう。あるいは飲み屋を巡回するストリートミュージシャンの類だと思っているのかもしれない。けれど、その顔は一様に驚きに包まれていた。
兄上は薫をひたすらに凝視していた。まるで宝物を見つけた少年のように、こけたほおが紅潮していくのを、マリナは見た。


十五分ほどの演奏が終わった。「トゥレボゥン!」と大きな歓声。通りかかった者だけでなく、周辺の店からもたくさんの男女が出てきていたのだ。一同は薫に惜しみない拍手と讃美をおくった。
その中には和矢もジルも、それから空想状態だったはずのミリアムもいた。







next

Viewing all articles
Browse latest Browse all 577