《ご注意》この記事はいわゆる二次創作です。苦手な方は閲覧をおやめください。シャルマリです。登場予定キャラはヒミツ… 全7回を予定。(8,800字、読了時間19分)
6、土曜日の愛をする薔薇王
198X年7月9日(土)午前7時35分
サブ寝室のドアの前で座りこんだまま、うつらうつらとしていたシャルルの肩を乱暴な手が揺する。
「おい、起きろよ」
うっすらと目を開ければ、何をやってんだと言いたげなバイオリニストの顔。長い前髪の奥からこちらを睨んでくる三白眼はいつもより一層嫌みたらしくて、寝起きには一番見たくない顔だ。
「あたしゃ、もう札幌に出るんだけど、お前さんたちは一体どんな夜を過ごしたわけ? ドアの前でさ。遠隔プレイ? いきなり激しいな」
冷やかすような薫の顔を、シャルルは軽蔑しきった眼差しで一瞥してから、立ち上がった。無言でダイニングに行き、テーブルの上に置いてあった水差しからグラスに注いで、それを口に含む。
そんなシャルルを薫は注意深げに見つめていたが、ややしていった。
「どうやら清い夜だったようだな、つまらない」
「ふん」とシャルルは水を飲み干して、グラスを手に窓辺に向かう。「残念だったね、君の下卑た妄想の通りにならなくて」
「ほんと残念。今のあんたならマリナを幸せにしてやれるだろうと見込んだから、あたしは昨夜出ていったのに、何があったんだ?」
シャルルが振り返ると、いつの間にか薫がシャルルの目前までやってきていた。
「あたしには聞く権利があると思うけどね」
シャルルはため息をついて、淡々と話し始めた。「出て行く君を止めようとして間に合わなかったマリナは、君がドアから姿を消した途端、今度は脱兎の勢いでリビングに戻ってきて、サブ寝室に逃げ込んで、中から鍵をかけたんだ」
「ほう。やるね、あいつ」と愉快そうに薫は腕を組んで口笛を吹いた。シャルルは薫を睨む。
「それであんたはドア越しにあいつに愛をささやいたというわけだ。泣かせるね。でも天照大神様は、今度は出てきてくれなかったのか?」
「出てくるところか、たった三分後には高いびきだ」
「それ、マジ?」
「疑うなら聞いてこい」
薫はすぐさまサブ寝室に向かい、ドアに耳を当てた。そして薫は深いため息を吐きながら、戻ってきてつぶやいた。「本当だ。怪獣みたいな音」
「だろう。あんな女相手に愛をささやけるか」
「でも、ドアの前で夜明かししたんだろう? 泣かせるね、その純愛が」
シャルルはムッとした顔で、そっぽを向いた。くくっと笑う薫の視線が実にいまいましい。
「仕方がない。純愛の騎士にこれをやるよ」
そう言われて、薫のほうを向くと、一冊の雑誌が差し出されていた。それは日本国内に置いて、もっとも流通量の多い旅行案内雑誌の北海道版だった。表紙には「いまこそ訪れよう、北海道!」という煽り文句とともに、海鮮丼や時計台、ラベンダー畑の写真がバランスよく配置されている。
「昨夜いった屋台のおっちゃんにもらったんだ。数年前のらしいけど、店とかそんなに変わってないだろうから、充分参考になるだろう? 今日一日、マリナとデートしなよ。普通の男女交際って、やっぱり昼からだもんな☆ 二人でうまいもん食って綺麗な景色を見て、そうやって親交を深めたら、夜もハッピーエンドになれるぜ?」
ニヤッと笑われて、シャルルは思わず顔に血がのぼるのを感じた。それを隠したくて右手で口を覆いながら顔を背けると、
「どうしたの、すげぇかーわいい反応じゃん。本当に愛しちゃってんだな、マリナのこと」とまた冷やかされた。完全に薫はシャルルで遊んでいた。
シャルルは黙ってじっと耐えていた。内心はこの部屋から飛び出していきたいほどの屈辱を感じていたが。どうして俺がこんな低俗なバイオリニストのおもちゃにされないといけないんだ? 心は悲鳴をあげているし、理性は我慢をやめろといっている。
だが――
「それならマリナは俺と話してくれるだろうか?」
不屈の精神で克己したシャルルが小さな声で訊ねると、薫はニッと笑った。そして薫はリビングのサイドボードの上に置いてあった小さなショルダーバックを手にした。小花が散りばめられたデザインからしてマリナの所有物だろう。薫はその中身を勝手にまさぐり、小ぶりのがま口財布を取り出した。
何をする気だ?
と思っていると、薫は再びシャルルに目を向けて笑みを浮かべる。
「とりあえず、夜十時に札幌の日航ホテルであたしが待ってると伝えてくれ。それまでは自由行動だと。あいつは金を一銭も持ってないから、あたしがいないとあんたに頼るしかない。大丈夫さ」
薫の行動にシャルルは少々あぜんとする。どうやらマリナの財布は持っていっちまうつもりらしい。
「財布がなくなっていることを、マリナになんと説明すればいいんだ?」
薫はがま口の中を開けて、小銭ばかりのその少なさにケタケタ笑いながら答えた。
「妖精が持っていった、とでも答えておいてくれ」
―――――――――――
マリナが起きたのは、午前十時を過ぎた頃だった。
昨夜のことを忘れたかのように、寝ぼけ眼でだらしない顔のまま出てきた彼女は、リビングのソファに座っているシャルルの顔を見た瞬間に凍りついた。例えるならば、サウナに入っていたペンギンが水風呂に放り込まれたような顔だ。
「なんであんたがいるの!?」
「そこから説明しなくちゃならないのなら、君は記憶喪失の可能性があるぞ」
「へ?」
「俺は、君を追いかけてきてここにいるの。忘れたか?」
マリナは目を瞬いた。瞳孔がくるくる回って、マリナの少ない脳細胞の中が今まさしくフル稼働しているのが目に見えるようだった。いや、シャルルはマリナに関して頭脳が劣った人間だと思っていない。見下した人間を人は愛したりなどできない。
やがてマリナはハッとした顔をした。彼女が何か言う前に、シャルルは立ち上がった。
「お腹が空いただろう。何か食べに行こう。豚肉は好き?」
「ぶ、ぶた? もちろん好きだけど」
「じゃあ今日の最初のお出かけは豚丼に決定だ。この宿はチェックアウトするから支度して。忘れ物のないようにね」
「ちょっと待ってよ。薫は?」
薫の約束を伝えると、マリナは驚いた様子だった。「信じられない。一緒に連れていってくれるって言ったのに!」と不満たらたらだ。
「とにかく急いで。チェックアウト時間が過ぎているから」
と急かすと、腑に落ちない顔をしながらも彼女はまたサブ寝室に戻った。顔を洗ったりしたのか、再び出てきた時には、先ほどよりもかなりさっぱりとした顔になっていた。メガネの曇りも改善されている。
「シャルル、あたし一人で札幌にいくわ。ここで別れましょう」
マリナはそう言いだした。シャルルは「そう」とだけ答えた。二人で部屋を出た。廊下を歩き、エレーベータを降りてフロントでチェックアウトをする。鍵をフロントデスクに返すと、昨夜薫が飲んだワイン代の清算をとフロントマンが告げた。
「薫ったらどうして払っていってくれなかったのかしら! ……あれ? 財布がない!」
バックをまさぐるマリナの大声に、フロントマンの視線が厳しくなる。
「なんでないの? あたしのがまちゃん!」
シャルルは困り果てるマリナの横に行き、さっとカードを出した。「これで清算を」
かしこまりました、と笑顔になるフロントマンをよそに、マリナはたちまち不機嫌顔になる。
「シャルル、あたしの財布を盗んだでしょう?」
「人聞きの悪い。俺は荷物一つ持たずに来たんだ。ポケットでもなんでも調べろよ。さあ」
彼女によく見えるように、ジャケットの前身頃を持って開くと、マリナはじーっと見聞してから、やがてあらぬ方角を睨んで拳を固く握った。
「薫ね。あのやろ~~~!」
「妖精が持っていったんだろうさ」
「妖精?」
「とりあえず豚丼食べにいかないか?」
マリナは口を尖らせて、一瞬の間だけは思い悩んだらしいが、食欲に勝てなかったのか、はたまたお金がないという現実問題に勝てなかったのか、パッと顔をあげた。
「肉大盛りで、おかわりもさせてね!」
明るい笑顔で笑うマリナ。
ああ、君が好きだと、シャルルは思った。
タクシーで三十分ほどで、ガイドブックに掲載されていた豚丼の名店についた。店の名は「ぱんちょう」。日本では松竹梅というと「松」が最上とされるが、この店では松竹梅の「梅」が上だった。肉質、量ともに最上のものが提供される。
二人が店にいったときは、まだ開店まもなくであり、並ぶこともなく食事にありつけた。もちろん「梅」を二つ頼んだ。マリナは大変満足で、もういっぱい食べたいと言ったが、シャルルはそれをとめた。
「次があるから」
次?と首を傾げる彼女に、微笑みだけを残して、シャルルは店を出た。
「少し歩くけどいい?」
東京や札幌とは違い、高層ビルのない帯広の街を二人でゆっくりと歩いた。薄曇りで、暑くも寒くもない。歩くと適度な風の匂いを感じて、気持ちがよかった。
「もちろんいいわ。帯広の街って綺麗ね。人も車も少ないし、ゴミも少ない。なんだかパリに似ていない?」
「似ているかな?」
「この空気がそう感じさせるのかしらね。あたしの住んでいる東京はいつもじとーっとしているから」
なるほど、と思いながら、シャルルは考える。マリナがパリに来たのは、最初に彼女と出会った芽吹きの季節と、そのあとのアルニー城の時、そしてミシェルの騒動が会った時の合計三回だ。それほど多いとは言えない。
パリにも嫌な気候の日はある。暑くてたまらない日も、凍えるように寒い日も。
君がそんなパリを知る日は来るのだろうか……?
「藤丸ってデパートがあるわよ。デパートも可愛いサイズね。ブロンズの鹿がいるわ」
マリナの言葉でシャルルはハッとした。
「ごめん、行き過ぎた」
「何やってるの」とクスクス笑う彼女を連れて行ったのは、そこから半ブロッグ手前にあった喫茶室だった。老舗菓子店「六花亭」の二階に併設されている。オリジナルソフトクリームや、ピザ、ケーキなどを食べることができるとあり、マリナが喜ぶかと考えたのだ。
午後一時過ぎの店は混んでいて、行列に並んでから、窓側の席に座った。マリナはソフトクリームと、ケーキを三種とジュース、シャルルはコーヒーを頼んだ。十分ほどしてやってきたスイーツに彼女は感激したらしく、
「おいし~~い」と目を潰したようにつぶって、首を振って感動をあらわにしていた。
続いて行ったのは、ナイタイ高原牧場。帯広からタクシーで一時間ほど走った山べりにある、日本一広い公共牧場だ。特に夏場は色濃い牧草と青空のコントラストがすばらしく、その間に押し込められたように広がる街や山々が雄大な景色を楽しませてくれる。
「すっごーーい。きっれーーい!!」
マリナは両手をあげて牧草に駆け出して行き、「えいっ!」とその上にうつ伏せに飛び込んでいった。
「きゃはははっ、きもちいい」
ゴロゴロと牧草の上を転がる彼女をしばし眺めながら、シャルルは目の前に広がる絶景を見つめた。ゆっくりと深呼吸すると、牧草の匂いに混じって、家畜の糞尿の匂いがした。それすらも体内を清める香のように感じてしまう。
シャルルはなんども深呼吸をしたあと、牧草の上に転がるマリナのそばにいって、彼女の隣にそっと腰を下ろした。マリナは仰向けに寝ていた。可愛いその瞼は閉じており、陽の光を浴びて、丸く輝いていた。小さな唇から漏れるのはすーすーという規則的な息。
「こんなところで寝るなよ」とシャルルは苦笑した。
「だって寝不足なんだもん」とマリナがつぶやいた。
「寝不足?」
昨夜八時前から朝十時まで熟睡していた人間が?
「あれだけ寝て寝不足になるか?」
不審に思って見つめるシャルルの前で、マリナがガバッと起き上がった。それはシャルルが思わずのけぞるほどの勢いだった。
「お腹すいたっ! あたし、ちょっとレストハウスいって来る!」
そういって、彼女は後ろにあったログハウス風のレストハウスに向かって駆け出していった。牛の鳴く声が聞こえた。
―――――――――――
「列車に乗る前に寄りたいところがあるんだけど、いい?」
タクシーの中でそう訊ねると。マリナはうなずいた。
「いいけど、どこ?」
「いってみてのお楽しみ」
ナイタイ高原牧場からタクシーで一時間半、帯広の西にある幕別町の小さな公園に車は入っていった。
「ここで待っていてください」と運転手に告げ、シャルルはマリナを伴って、公園内に入る。なにがあるの、と訊ねる彼女に、微笑するだけでシャルルは先を急ぐ。
やがて、茂っていた公園の木々が広がり――
「わあ!」とマリナが歓声をあげた。本当に驚いたというその顔に、シャルルは満足そうに先立って行き、マリナを手招きする。
「おいで。中に入れるんだよ」
二人は大きな建造物の中に入っていった。アイヌ語で「偉大なる崖」を意味するこの建造物は、アイヌの発音をそのまま採用して「ピラリ」と呼ばれている。公園口から見た形はアルファベットのLに似て、恐竜が頭をもたげたような感じだ。全体はオレンジがかった肌色で、ところどころに貝殻のラインストーンがはめこまれていた。直線は全くなく、すべて曲線だけで設計された、優雅でかつ不思議な建物なのだ。見晴台のような塔が一つあり、螺旋階段で繋がった地下には、ぐんねりとうねった通路がひろがっている。かの有名なガウディを思わせる魅力がある。
穴場スポットとガイドブックに記されてあった通り、晴天の土曜日だというのに人気はまるでなかった。
マリナはさんざん穴ぐらのような地下や螺旋階段を歩き回り、そこら中にある穴から顔を出したりしながら、最後に展望台の上に立って、街を見下ろした。街とはいっても幕別はほんの小さな街なので、周辺に広がるパッチワークの田畑まで視界に全て入る。
シャルルはいった。
「ここは『未来を見つめる』という意味があるらしいよ」
マリナがシャルルをふり仰ぐ。シャルルは微風に散らされた白金の髪をぐいっと頭頂部までかき上げながら、その手を頭のてっぺんで止めて、折った腕の影からうつむき加減にマリナを見る。
「街に住む人たちの幸せを願いつつ、その未来をいつまでも見つめていけるように、こうやって高台に作られたんだ。俺もそうだ。いつだって、どこにいたって、君の幸せを心から願っている。だけど本当は、君の幸せは俺が作りたい。そして君と一緒に未来を歩みたい」
シャルルはマリナを注意深く見つめた。茶色がかった大きな彼女の瞳はシャルルへの愛情を訴えていた。だが同時に強烈な恐れに怯えているようにも見えた。唇もはっきりと震えている。頑張って平静でいようとしているその顔がみるみるうちに歪んでいくのを認めて、シャルルは視線を外した。これ以上追い詰めてなんになるのか。
「帰ろう。列車の時間がある」
彼女の心に巣食う恐れを取り去らないことには、彼女は永遠に、俺を迎え入れないだろう。
では、どうしたらいい?
どうしたらわかってもらえる?
君のためならば、この体も心も、すべて捧げてもかまわないと。
どうしたら君に伝わるのだろう――
十九時二十二分帯広発特急スーパーとかち10号に乗車した。乗る前に購入した駅弁とペットボトルのお茶をそれぞれ座席の前のテーブルを出して置く。マリナは乗るなりさっさと食べて、食べ終わるとこれまたさっさと目を閉じてしまった。窓に寄りかかるようにして、シャルルの方に顔を向けようともしない。これ以上話しませんという彼女なりのシャッター下ろしだとシャルルには感じられた。
シャルルは通路側の肘置きに頬杖をつきながら、反対側の座席の窓を見た。反対側には客はいなかった。まだ外は明るく、平坦な田畑が流れるように過ぎ去っていく。
シャルルも目を閉じた。袋小路に迷い込んだような気分だった。真剣に告白しても届かない。デートをしても楽しさの中に心だけがすれ違う。でもマリナの一挙手一投足に、彼に対する恋の残骸が散りばめられているような気もする。
シャルルは腕を動かして隣のマリナに触れるようにした。もちろん、彼女が気づかない程度に、ほんの少しだけだ。夏着越しの体温がわずかに腕に伝わり、シャルルは独り唇を噛み締めた。
札幌には二十二時十五分に到着した。すぐに薫との約束通り、日航ホテルに向かったシャルルたちを待っていたのは、思いがけない伝言だった。
「響谷薫様からご伝言をお預かりしています。――わたし危篤。東京へ帰る。ホテルの部屋は二人で使え――以上でございます」
マリナはぽかんとしたあと、すぐにいった。
「わたし危篤って、何よそれ!? 薫のバカ、一体何を考えているの!?」
シャルルとしてはなんとも言いようがない。ひとまずフロントで騒ぐマリナの沈静に勤めることにした。
「とりあえず部屋に行かないか? ここで騒いでいるのも迷惑だ」
「やだ! あたしも東京に帰る!」
「どうやって帰るんだ。こんな時間から」
そう言われて、マリナも我に帰ったようだった。飛行機はすでに最終便が終わっているし、列車などとんでもない話だ。しぶしぶマリナは部屋に入ることを了承した。
しかし、薫がリザーブした部屋に入った瞬間、マリナはまた叫んだ。
「なによ、この部屋!」
昨日の温泉旅館とは打って変わって、リビングルームもサブ寝室もない、普通のホテルの部屋だったのだ。それはまだいい。
「いや」とシャルルも口を濁す。ドアを開けて目の前にあるのは、どーんとクイーンサイズのダブルベッド一つ。あとはごくごくシンプルなテーブルと椅子が二脚あるだけの、一般的なダブルの部屋だった。これならマリナが逃げるところはバスルームぐらいしかない。
この部屋をリザーブした薫の意図はどこからどう見ても明白だった。シャルルは頭を抱えた。「今夜こそうまくやんなよ、アルディ先生」とウインクする彼女の顔が目に浮かぶようだった。
案の定、マリナは大反応して、「絶対にこんなところに二人で泊まるなんて嫌!」と言い張った。そこでシャルルは他の空室の有無をフロントに確認したが、ございませんと無情に言われた。七月は北海道の観光ハイシーズンだ。しかも今日は土曜日の夜。無理もない。やむなく、「何があっても一メートル以内に近づかない」という屈辱的な約束を交わして、どうにかマリナを納得させた。
風呂は入らないといってマリナは、すぐさまベッドの端っこで横向きに丸くなった。牧草の上に寝転んだくせに、と少々ゾッとしながらも、シャルルは彼女を無視してバスを使い、バスローブに着替えて出てきた。昨日のようなマリナの高いびきは聞こえなかった。
そっとベッドに乗ってから、サイドの電気だけを残して、部屋を暗くする。それからあまりスプリングを弾ませないように、慎重に、仰向けに身を横たえた。
シャルルはほっと吐息をついて、いった。
「俺は明日パリに帰る」
向うむきのマリナの背中が、一瞬だけ動いたような気がした。
「明日はたぶん君が寝ている間に出る。挨拶はできないと思うから今言っておく。君が東京に戻れる程度の金はフロントに預けておくから、心配はしなくていい」
マリナが今度は確実に身じろぎした。振り向きそうで振り向かない。つぶやき声だけが漏れた。
「帰ったら結婚するの?」
「そうなるだろうね」
「知らない人と?」
「誰でも一緒さ」
その瞬間、マリナがぐるっと身を返して仰向けになり、首をこちらに向けた。とはいってもクイーンサイズのベッドだ。二人の距離は一メートル以上ちゃんと空いている。
「もし――もしもよ。もし、あたしがあんたを好きと言っていたら、これからどうするつもりだったの?」
シャルルは視線だけ横にやってマリナを見る。
「それはなんとかするって言っただろ」
「なんとかじゃなくて、どうするのか知りたいのよ」
刑事の追求のように食いつくマリナに、シャルルはさらっとした受け答えをする。
「実際のところ何も考えてなかった」
「なんですって?」
この答えはマリナにとってかなりの予想外だったようで、彼女はベッドに後ろ手をついて、身を起こした。
「何も考えずにアルディ家にさからおうとしたの? 以前あれだけの目にあっていながら? あんたバカじゃないの? そんなちゃらんぽらんなことであたしを好きだなんて言ったの?」
「だって仕方がないじゃないか。このままだと結婚だと思った時、どれだけ君のことを愛しているかを思い知らされたんだから。君のことを思うだけで、頭が爆発して、狂っちまうかと思っただったんだ……っ」
シャルル、とマリナが息を詰めて彼の名を呼んだ。そしていった。
「ごめんね」
シャルルはフッと苦笑した。
マリナのことは一生あきらめられやしない。出会った時からの一秒一瞬が心に深く強く焼きついている。怒り顔、拗ねた顔、変な顔、満足そうな顔、笑顔、そして俺の腕の中でほおを染めたあの顔。
どんなことをしても忘れることなんかできない。
でも追いすがるのはここまでだ。
二人の幸福は、片方だけがいくら願っても得られないのだから。
俺はこれからもマリナの残像を追い求めながら暮らして行く。たとえどんな女性を妻にしようとも。アルディが俺を種馬として求めているのならば、連中を感嘆させるほどの種馬になってやる。心までは誰にも立ち入らせない。賞賛も賛美もいらない。しんしんとした孤独があればそれだけで生きていける。
さよならマリナ――
シャルルは大きく深呼吸をして、激しく乱高下した気持ちを切り替えてから、できるだけ優しく、静かにいった。
「ありがとう。美しい北海道で君と過ごせてとても楽しかった。無茶ばかりいってすまなかった」そこで一旦言葉を切って、シャルルはマリナの方を向いた。「無茶ついでに最後にひとつだけ頼みごとをしていいかい?」
「なに?」
「手を繋ぎたい」
マリナに向かって右手を差し出すと、おずおずとしたマリナの手が触れた。シャルルはその小さな温かい手をぎゅっと握りしめて、ベッドの上に下ろした。
「華麗の館よりは進歩したね。四年かけてこの進歩なら、俺たちが結ばれるのは天国だ」
とシャルルは天井を見上げて悲しげに笑った。
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