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綺麗に抱かれたい 第十一話

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《ご注意》シャルマリ2次創作。大人向け。




第十一話



それから数年後。三歳になったエロイーズは、可愛い盛りとなった。
「まあ、一度お嬢様を抱っこしたら、離すのが惜しくなってしまいますわ」
メイドたちは誰もがエロイーズの世話焼きを率先してやった。それもそのはず、エロイーズは手のかからない子で、いつもあどけない笑みを浮かべて、与えられたおもちゃで、静かに遊んでいるのだ。誰が相手をしようともよくきゃっきゃと笑い、よくなついた。警戒心などまるでなく、人見知りという成長過程も彼女は経験しなかった。
母の部屋で、母が使っていたソファにオレがすわり、ジルがワゴンに用意したティーセットから湯気の立ち上がる紅茶をオレのためにカップにいれる。その光景は結婚前と同じだ。唯一違うのは、ソファの隣にはいわゆるベビーベッドを三倍大きくした遊び場が設けられていて、その中でエロイーズが熊のぬいぐるみをだきしめていることだ。そんな彼女を見ながら、ジルがポットを手に問いかける。
「――エロイーズは特別に、神様に愛された子供だと思いませんか?」
「それは、どういう意味だい?」
「だって、これほど純粋で、すなおで、愛くるしい子を私はこれまで見たことがないのですもの。顔を見ているだけで、こちらの心が浄化されていくようです」
「そうだな。確かにエロイーズには普通の人間にはない特質が備わっているように思えるよ。できれば、このまま成長してほしいと願っている」
「私もそう思います。このまま成長すればどれほど素晴らしい女性になることか……。楽しみですわね。とてもじゃありませんが、シャルロットの娘だということが信じられません」といって、ジルは微笑みながら、オレが愛用しているバラ模様のカップに紅茶を注いだ。シャルロットが聞いたら、なんというだろう。
「ところで体調はいかがですの?」
「ああ、心配はいらない」
「でも、朝の顔色はひどかったですが」
「昨夜よく眠れなかっただけだよ。その分、今夜早く寝るから大丈夫だ。サミュエルだって、あれだけ泣いたらきっと早々に眠っちまうさ」
「赤ちゃんは寝るのが仕事ですよ。大人のように、昨夜寝不足だからといって、今夜その調整を図るとは思えませんが……」
ジルは、疑問たっぷり、と言いたげに顔をしかめつつ、オレの前にカップと、銀紙に包まれたショコラを並べた。オレはそのショコラを一つ口に放り込みつつ、まだわかっていないなと、ジルを哀れに思った。確かに赤ん坊は寝るのが仕事であり、大人のような生活は営まない。だがサミュエルは違うのである。
「ところで、モザンビークの地雷撤去に関する支援事業ですが、今の段階では、実行不可能というしかありません」
残念そうにいうジルに、オレは「だろうな」とだけ答えた。
「すでに、アルディの資産は枯渇し始めている。アメリカのブラックマンデーは、アルディのような、能無しの貴族の心臓に杭を打ち込んだからな。親族会議は今、余計な金を一文だって出したくないはずだ」
当主復権以来、親族会議に提出しつづけてきた議案のひとつに、モザンビークの支援があった。内戦に苦しむ人々のために医療団を送ったが、それだけではなく、経済を根本から立て直すためにはどうすればいいのかを真剣に考え、アルディの力を使って実行しようと思っていたのである。
だが、そうしている間に、内戦は終結。モザンビークには国際的な支援が入り、難民となっていた人々も帰還を始めた。経済の自立や、暮らしの向上には今後長い年月がかかるだろうが、それは国としてやっていってもらうしかない。オレが注目したのは、内戦の遺物、しかも負の遺物だ。モザンビークの国中には地雷が埋まっており、その数は世界でも類を見ないものだった。オレは自分の使命を見つけた。
「オレの個人資産ならいいだろうに、ごうつくばりめ」
「仕方がないですわよ。ミシェル騒動の時に、あなたの個人資産は凍結されましたから」
「一度、堕ちたやつは信用が置けないというのか? 金も力もなくて、当主ってなんだよ? シンボルか? ルーブルのガラスパビリオンかっていうんだ」
「お怒りにならないでください」とジルは悲しそうにワゴンの取っ手をもった。「今は我慢です。親族会議の皆様はみな、あと十年もすれば天国です」
さらっと冷酷な発言をするジル。オレは少し気分が晴れやかになって、茶のお代わりを頼んだ。すぐにジルは応じつつ、聞いた。
「そういえば、サミュエルは今、どちらに? 私が使いから帰ってきたら、見当たりませんでしたけれど」
「ああ、サミュエルなら、今、ルパートと空中散歩に行っている」
「空中散歩?」
「今日は戦闘機のチェック飛行だというから、乳母と一緒に乗せてもらった」
「なんですって?」と、ジルの大声が部屋に響いた。エロイーズが一瞬、ひっと変な声を上げたが、すぐに彼女は自分の世界に戻って行ったらしく、きゃっきゃと笑い声を立てた。「シャルル、あなた、何を考えていらっしゃるのですか? 首が座ったばかりの赤ちゃんを、戦闘機に乗せる親がどこにいますか!」
「ここにいるが」
「何かあったら、どうするおつもりですか?」
「ヘッドギアも装着させたし、アクロバッド飛行はしないように命じたし、ルパートの腕はフランス一だ。あいつの戦闘機で危ないのなら、並みのパイロットが操縦する旅客機など恐ろしくて乗れない。だから、問題は何もない。以上、反論は?」
グッと黙り込むジルを見ながら、満足したオレは紅茶をすすった。昔から変わりない赤ワインをブレンドしたアッサムティー。うまい。
「そのヘッドギアはあなたが?」
「もちろんだ。素材には強化ポリウレタンと、特殊な樹脂をまぜて作った。壁にこの素材を敷き詰めて、トラックを激突させた実験では、素材がなかった場合と比べて50%衝撃を緩和できた。サミュエルの首を守ってくるだろう」
「乳母やルパートにも、作ってさしあげたのですか?」
「なぜ? あれはサミュエルのために作ったんだよ」
すると、ジルは「あなたって人は」と頭に手をおいてため息をついた。「どうせなら、彼らの分も用意してあげればよかったでしょう。万が一の時には、彼らがサミュエルを守ってくれるのですから」
「そういえばそうだったな」とオレは手をポンと打った。それは気がつかなかった。「今度から作ることにしよう」
「まったく……、ただの親バカ」と、ジルは彼女らしからぬ、品のない鼻息をひとつオレに放った。オレはカップをテーブルに戻し、立ち上がって、隣で遊ぶ娘を抱き上げた。「パパ」と呼びながら、小さな手でほおを撫でてくるのが愛しくてたまらない。彼女を抱いたまま、窓辺によって、外を見た。
「パパ、パパ、パパ」
エロイーズは、言葉が遅く、話せる単語もまだ50ほどしかない。その中に「パパ」があるのがオレにとっては最高に嬉しく誇らしいことだった。
「エロイーズ、ママンに会いたいか?」彼女の顎を撫でながら聞くと、エロイーズはニコッと笑った。
「うん! パパ!」
「そうか。会いたいか」
オレは娘の体を庭に向けながら、よいしょっと抱き直して、優しい声でいった。
「どうだい、庭のバラはとても綺麗だろう? 君のママンは庭にいるんだよ。どのバラでもいい。好きなバラを選びなさい。そうしたら、バラがママンになってくれるから」
「うーんとね、あれがいい!」
エロイーズが指差したのは、ピンクのミニバラだった。エロイーズはピンクが好きで、色とりどりのものがあるうちどれか一つを選べと言われたら、ピンクのものを選ぶのだ。
「よしわかった。これからあのバラを一緒に観に行こうね」
後ろでジルがたっぷりとしたため息をついているのが、よく聞こえた。
「かわいい子供達をおいて、シャルロットは一体どこに行ったのですか?」
「ああ、息抜きだよ。いいじゃないか。たまには」
子供にとっては、母親が元気でいてくれることが一番だからね――
オレは心からそう思った。


夕方になって、乳母とともにサミュエルが帰ってきた。疲れたのかよく眠った状態で。
「なかなか肝の座った赤ん坊だったぞ。一度も泣かなかった」と、ルパートは嬉しそうにいった。「将来の当主としてたのもしいかぎりだ。一歳の誕生日にはアクロバット飛行にのせてやろう」
晴れやかにそういって帰ったルパートを見送ったジルは、「まったく調子にのって」と苦々しい顔をして戻ってきた。
「ダメですよ。あんまりルパートのいうなりになっては。本来アルディは貴族。軍官ではないのですから、武力は、たしなみ程度でいいのです、た・し・な・み!」空中に字を書くように指を振りながら、ジルはいった。
「だが、代々アルディの男は、軍隊経験をする決まりだぜ」オレはサミュエルのヘッドギアをチェックしながらいった。傷はない。よし。
「あくまで経験、です。何事も経験が大事なのはいうまでもありませんが、そこに重点を置く必要はないのです。オーロラを見に行きたい人は大勢いるでしょうが、オーロラを観測できる土地で永住してもいいという人は少ないでしょう。つまり、そういうことです」
つまり、どういうことなんだと思いながら、オレはヘッドギアをテーブルに置いた。
「わかったよ。アルディがあくまで貴族だってことを忘れないようにする」
ジルは、0.1秒の猛スピードで「約束ですよ、絶対に忘れないでくださいねっ!」とオレに念押しをした。
食事の後は、バスタイム。オレはいつもエロイーズと一緒にシャワーを浴びるのだが、彼女はピンクのバスジェルが大好きで、オレの体にそれを塗りたくっては、「パパ、ムースムース」とはしゃぐのだ。普段はおとなしいエロイーズが、自分を解放する一瞬。
「ムースのパパ、パパムース。きゃははっ」
「こら、じっとしなさい。滑るから」
威厳を持ってしかるオレなどどこ吹く風とばかりに、捕まえようとする腕の間を素早くすり抜けて、エロイーズはバスルームを駆けずり回るのだった。
バスルームを出ると、ジルがタオルを持って待っていて、エロイーズの体を拭き、ネグリジェを着せた。サミュエルはぐっすり眠っているようだ。
「それではお休みなさいませ」
「うん。おやすみ、ジル」
手を振ってジルを見送ったあと、エロイーズはベッドに潜り込んできた。「パパ、お話」
「今日は何がいい?」
「シンデレラ!」
オレは「はいはい、お姫様」と笑いながら、娘の頭の下に腕を差し込んで、その頭を引き寄せ、灰かぶりと呼ばれる、哀れで美しい少女の話を聞かせた。途中、かぼちゃの馬車が出てきたところで、すーすーっという寝息。エロイーズはまだベッドの上で王子様に会えたことがない。
「ゆっくりおやすみ」エロイーズの額にキスをして、シーツを彼女の胸元まで引き上げてから、サミュエルの様子をみるためにベッドを降りると、ちょうど彼が目を覚ますところだった。黒いまつ毛に夜露を垂らしたような涙が二滴、三滴。これは彼が泣く前兆だ。入り口近くのサイドボードの上にある電話を取り上げて、「ミルクを作ってくれ」とメイドに命じ、サミュエルのところに戻って、泣く前に彼を抱き上げた。
やがてやってきたミルクを、元気よくサミュエルは飲み始めた。食事を終えた彼は、寝ることなく、これからしばらく、オレの髪をつかんだり、指を噛んだりして、遊びつづけるはずだ。
「遊ぶ前に、君にはやることがあるだろう?」
オレの問いに、サミュエルは「あぶ?」と笑った。なんというかわいいその顔。オレは仕事の疲れも吹っ飛ぶ思いで、彼をベビーバスに入れ、全身をくまなくオイルマッサージした。サミュエルはこれがとても好きで、姉そっくりに「きゃっきゃ」と笑い声を立てながら、手を動かして喜ぶのである。彼がそんな風にバスローブの上でくつろいでいるうちに、オレは手早く周りを片付け、それから彼に柔らかな服を着せて、抱き上げて部屋に戻る。
ふう、やれやれ――
さすがに疲れてサミュエルを抱いたままソファに腰を下ろすと、前触れもなく突然後ろのドアが開いて、モスグリーンのワンピースを着たシャルロットが入ってきた。バツの悪そうな顔。けれど化粧はばっちりと決まっている。両手には重そうな紙袋。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」と抜き足差し足、舌をぺろりと出しながらでやってくる彼女に、オレは首を横にふった。とたん、サミュエルに鼻をつままれた。
「大丈夫だよ。楽しかったかい?」と問いかけると、シャルロットは見る間にほおを紅潮させた。
「うん、とっても楽しかったわぁ!」
シャルロットはオレの隣にドスッと座りながら、輝くような笑顔で、今日一日に経験したことを一気にまくしたてた。
「ナタリーたちと会うのは久しぶりだったの。待ち合わせは駅の南口でね。駅、知らないうちに改装しちゃってたのね。私ったら場所がわからなくて、30分も見当違いなところを、うろうろしちゃったのよ。やっと会えて、それからお茶して、博物館にいって、ランチして、デパートで遊んで、公園でお茶して、ディナーして、クラブに行ったの。みんな、リセ時代と全く変わってなかったわ。あっ、でも、アンだけはちょっと太っていたわね。腕なんてハムみたいになっていて、今にも袖のボタンが飛びそうで、見ていてハラハラしちゃった。彼女の夫はいい給料をとっているのね。ローラはずいぶんふけていたわ。彼女は弁護士を目指して、今は弁護士補助をやっているんだけど、そういう仕事を続けるっていうのも大変なのね。たぶん、一番美しかったのは、私ね。ほら、出産後の女は美しいっていうじゃない? もっとも私はもとから美しいですけどね――ごほっごほっ、あー、喉がいたい。ずっとしゃべり通りだったから、聞いてよ、この声。ひどいでしょう?」
「それほどでもないけど」
「えーっ? でもすごくいたいのよ。お水を頼むわ。それも思いっきり冷たいの」
シャルロットは電話でメイドに水を持ってくるように命じて、それからようやく「子供達はどうだった?」とオレに聞いた。
「二人ともいい子だったよ」
「そうなの? 私を恋しがって泣いたりしなかった? エロイーズはママンが恋しい年頃だし、サミュエルだってサァ……」
語尾をぼかした言い方は、相手に続きを言わせたい時に使われることが多い。つまり、シャルロットは、「二人とも泣いて大変だったんだ、やっぱり君がいないとダメだ」という報告が聞きたいのだ。確かに母親としては、自分の不在を嘆いてほしいのだろうが、実際彼女がいないことで大した問題は生じなかったので、オレとしては事実をいうしかない。
「困ったことは何もなかった」
すると、彼女の顔に不快の色が浮かぶ。
「ふーん、そう……」
「何?」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「だって、私がいない方が気楽みたいな言い方するんだもん」といって、彼女はぷいっとそっぽを向いてしまった。オレはぎくっとする。なんて、恐ろしく勘のいい女なんだろう! さすがにちょっと狼狽してしまうが、まてオレ、ここで、焦ってはいけない。
「まさか、君がいなくてさみしかったよ」
「本当?」こういう時のシャルロットの目は厳しい。裁判官のように。
「本当だよ」とオレは笑ってみせる。父親の気持ちを汲んだのか、サミュエルも「あぶぶ」と笑った。
「そりゃあ、希望を言わせてもらえるなら、帰宅した時に君が迎えてくれた方が、嬉しいに決まってるさ。けれど、いくら産後だからといって家に缶詰じゃあ、息がつまるだろう? 適度に外出して、リフレッシュした方が絶対にいい。オレにできる協力ならなんでもするよ。幸い、自由のきく仕事をしているわけだしね」
今のところ、オレの仕事は三つ。オート・エコール所長。アルディ当主。それから時折入るパリ市警契約の鑑定医。どれもこれも、オレが自由に仕事時間を決められる。
「エロイーズが生まれた頃から、あなたはそうだわよね。私に無理をさせないように気遣って……どうして、あなたはそんなに理解あるの?」と、シャルロットは顎を引いて、上目遣いにオレを見つめた。
「どうしてって?」
「私を愛しているから、優しいの?」と、シャルロットは、一輪の椿のような唇を丸くつぼめて、わざといやらしげな微笑みをうかべながら、極めて低俗で、かつ普遍的な質問を繰り出した。オレがどういう答えをするのかわかっていて、その答えを期待して、目が爛々と輝いている。
「もちろん、君を愛しているからだよ」100点満点の答え。
「そう。どうもありがとう」それでも彼女はちょっと不満そうに、顎を引いて、首をプランプランと左右に揺らした。浅いため息をついて、オレはサミュエルの背中を撫でる。彼はウトウトと眠り始めていた。
「君と子供達のためなら死ねるよ。それでも信じられない?」
「信じてないわけじゃないけど」腿の上に手を突っぱねて、シャルロットはうつむいた。「女は毎日聞きたいものよ。なのに、あなたってば愛の言葉が淡白なんだもの。もっとバリエーション豊かにいってよ。オレの愛するキャベツちゃんとか、愛するひよこちゃんとか」
「ひよこというより、うるさい雌鶏という方がぴったりだが」
「!」
シャルロットが顔を真っ赤にして怒った。その瞬間、オレはサミュエルの背を撫でていた手を伸ばして、妻の首根っこを捕まえて、強引に引き寄せ、ガーリックとアルコールのきつい口臭を発する口を、思い切り吸った。



夫婦で軽い運動を終えた直後、シャルロットは豊満な体にネグリジェをまといながら、思い出したように「あっ!」と短く叫んだ。オレはシャンパン瓶を片手に立ったまま窓辺に寄りすがり、ボイルカーテン越しの月を眺めながら寝酒を楽しんでいたところだった。予想通りサミュエルは睡眠不足を解消すべく、ベビーベッドで熟睡中。エロイーズはコトの前にオレが隣の子供部屋のベッドに運んだ。
「今日の午前中に電話があったわ。日本のヒビキヤ・カオルから、助けてほしいって」
「カオルから? タツミの具合がまた悪くなったのか?」
「ううん、違うわ。えーっと、誰だったかしら? 名前を聞いたんだけど、思い出せないわ。とにかく誰かがアフリカに行っちゃって、帰ってこなくて困ってるから、あなたに助けてほしいっていうのよ。アンナに伝言を頼んでおいたんだけど、聞いてない?」
「聞いてない」
すると、シャルロットは、「ということは、またあの子、忘れちゃったのね? 本当に困った子だわ。メイド訓練学校に戻さないといけないわねっ!」とすっかりおかんむりの様子だったが、一方のオレはアンナのメイドとしての適性を考えるゆとりなどなかった。
時計を見て時間を確認する。午前0時40分。つまり日本時間は午前8時40分。
急いで電話に駆け寄り、シャンパン瓶を持ったまま、交換手に「日本の響谷家につなげ」と命じると、二分ほどで、女性の焦った声が「もしもし、シャルル!?」と応じた。できれば巽の方がよかったのだが、こう興奮していては代われといっても無駄だな。
望みのない問題についてはサッサと諦めてから、オレは本題を切り出した。
「連絡をくれたそうだが、留守をして悪かった。一体、何が起きているんだ? 妻がいうことは何一つ要領をえない。はじめから説明してくれ」
「ああ、もちろん」薫の声がいきおいづく。「黒須が昔、世話した女の子に会うために南アフリカに行って、それっきり行方不明になっちまったんだよ。一ヶ月が経ったが、なんの音信もない。今日マリナがうちにきて、黒須を探しに行ってくるから、健人をうちで預かってくれっていうんだぜ!?   健人はまだ一歳になったばかりだぜ!!」
薫の声は、受話器を吹き飛ばさんばかりに、わあんわあんと響き渡った。




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