ディア・フレンズ 逃亡編
特急券は、車内で購入した。
トンネルを出た途端、田舎を感じさせる田園風景が目に飛び込んだ。
刈り入れが終わった後の田にタネを蒔いているようで、腰を曲げて作業する人影が流れるように過ぎていく。
「やっぱり速いなぁ。この電車」
あたしのひとり言を聞きつけたらしく、となりのおっちゃんが、にやっとして覗き込んできた。
「当たり前だよ。時速160キロだ。他なんか目じゃない。京成スカイライナーが一番速く都心に出られるのさ。あっ、ちなみにオレの親父は京成電車の元取締役。愛する千葉のために忠勤した立派な親父だよ」
え。
ということは、このおっちゃんはこの電車会社の偉いさん⁉
すごいわ、できればお近づきになりたい、ゴロニャーンニャン♪
それを尋ねると、おっちゃんはゆたかなお腹を叩いて笑った。
「いや。親父が取締役だったのは30年前だ。ちなみにオレは電気関係の会社の安サラリーマン」
あたしはがっくりと落胆した。
それに30年前にはスカイライナーなかったでしょう‼
とんだほらふきオヤジだわ‼
あたしが文句を言うと、彼は愉快そうに肩を揺らせた。
「ま、怒るなよお嬢さん。親父が会社のために一所懸命尽くしたのは本当さ。オレもガキの頃からお袋と妹と一緒に京成電車に乗ってさ。家族割引きなんてのが当時はあったんだよ。本気で親父がこの会社を動かしてるんだって信じてた。その親父は定年してすぐぽっくりいっちまったけど。親父たちの世代が頑張ったからこそ、こんなに素晴らしい電車が走るようになったんだ。
ところでお嬢ちゃん、よく冷えたビールはどうだい?」
おっちゃんは黒い鞄から薄く霜が張った缶ビールを二本取り出した。
「ちょうだい!」
わーんっ、責めないで‼
シャルルと追いかけっこしたから、喉がカラカラなのよ、このままじゃマリナの干物よぉ。
「乾杯!」
あたしたちは缶の縁を合わせた。
「おーーーっいい飲みっぷりだねえ、そういう子、好きだよ」
そうして、あたしたちは意気投合、おっちゃんの持っていた柿ピーを肴に、あっという間に最初のビールを飲み干した。
おっちゃんは「まだあるぜ」とニヤニヤしながら次の缶を取り出した。
「オレさぁ、今日は同窓会に行くんだよ。大学の。こう見えて早稲田なんだよ。3ヶ月前からスーツ買って楽しみにしてたら、今朝になってスーツがはいらなくてさ。嫁は適当な格好で行けっていうし、娘には呆れられるし、さんざんだよぉ。千葉の名産ピーナッツ、食べる?」
初対面のあたしに対して物惜みしないこの態度。
ああ、なんて素敵な人かしら‼
いえ、別にブラビやアランドロンに似てるとか、よく見るとマイケル・ジョーダンの血筋に見えるとか、そんな事は決してないわ。
よくいる太めのおっちゃん。
たとえ11月なのにポロシャツとスラックスというおそろしくセンスのない服装をしていようとも、缶ビールを置けちゃうぐらいお腹がでていようど、口が臭くて笑い方が下品で唾を飛ばしながら喋ろうとも、食べ物を独り占めするイケメンより、あたしははるかに好きだわ、一緒に旅するなら絶対こっち‼
二本目がお互いにつきそうになったころ、おっちゃんがあたしに顔を近づけていった。
「成田であんたを追いかけてきたあの外人はなんだい? ストーカーなら警察行った方がいいぜ」
あたしはビールをもう少しで吹き出すところだった。
「違うの! 彼は」
「彼は?」
「彼はね……」
友達よ、といいかけて、あたしは言葉に詰まってしまった。
そっかぁ……あたしとシャルルって友達なのよね。
自分でそうなるように決めといて、口に出そうとすると、ものすごく激しい抵抗感みたいなものがあたしの口を動かなくさせていた。
あたしは唇を舐めて噛みながら思った。
これが好きってことなんだーー
「ただの友達よ。
おっちゃんも見たならわかるでしょ?
あんなにカッコいい人があたしのストーカーにはならないわ。ちょっとした勘違いがあって、仲がこじれちゃっただけ」
おっちゃんは眉間に深い皺を寄せて顔を引き、「ふうん」と唸った。
「友達だったら、ふつうに仲直りすればいいじゃねぇか。なんであんな騒ぎに」
「そうなんだけどね。あたし、急いでたから」
「いくら急いでいたからって、あんな別れ方するか? 最近の若い人は」
「たっ、たぶん、フランス流よ! 派手で困るわよねー! だから成田から一番速く都心に帰れるスカイライナーに乗ったのよ」
「そりゃ、わが京成を愛顧してくださりどうも」
おっちゃんは気取って頭を下げた。
でも、顔を上げたその目つきは、ふーん、と言いたげな感じで、あたしの説明に全く納得していない雰囲気がありありと出ていて、あたしはいたたまれず話題を転じることにした。
困った時は別のことを考えさせるの、これが一番‼
「あたし、飯田橋に帰るんだけど、先回りされないよね?」
おっちゃんはヒゲを撫でてから、鞄から年季の入った時刻表を出してペラペラめくって、言った。
「時刻表はいつでも持ち歩けって父親の教えなんだ。えーっと、飯田橋飯田橋……
ーー絶対先回りは無理だ。このスカイライナーは10時42分発、京成上野駅に11時間23分に着くから上野御徒町駅まで歩いて11時40分発の大江戸線にのれば、飯田橋駅には11時46分に到着する。鳥だってこれほど速く移動できないぜ」
「成田エキスプレスを使って先回りしてこない?」
「JRさんは、横浜方面に行くには便利だが、飯田橋に先回りは、ま、200%できねえな。あんたが飯田橋に到着後、20分以上遅れて到着するだろうよ」
「そうなんだ……」
「だからスカイライナーは一番早く都心に着くって言ったろ? たとえヘリを使っても、先回りは無理だ」
「ヘリでも⁉」
あたしが迫ると、おっちゃんは時刻表を脇へ置きながら「お、おお…」と、少し気圧された様に仰け反った。
「だってあの外人はスカイライナーが出る時ホームにいただろ? あっこからヘリを要請なんて普通の人間にはできないぜ」
「普通の人間じゃないのよ」
「へ⁉ ……ま、とにかくすぐにヘリが使えて空港のヘリポートも使用できたとしよう。でもヘリってのは飛行の際必ず飛行許可証を空港事務局に申請する義務があるんだ。申請せず、超低空飛行でいけばレーダーに引っかからずに行けるかもしれないが、事前の打ち合わせなしにそんなヤバイ仕事を受ける人間はいない。
つまり、急に思い立ったからって飛べるようなものじゃないんだよ、ヘリってヤツは。ドラマや漫画では都合よくビュンビュン飛んでるけどね」
へええ。
たしかにここは日本。
まさかシャルルも、あたしが逃げると想定してヘリまで用意してないだろう。
じゃあ、あたしは飯田橋に帰って大丈夫ってわけね。
喜んであたしがそういうと、おっちゃんが、
「あんた、バカだろ?」
ムカッ!
「ストーカーだか友達だか知らんが、その外人は君には用があるのだろう? なら家まで当然くるに決まってるじゃないか」
あ!
「それとも家は知られてないのか?」
あたしは青ざめて首を振り、
「知られてるどころか、出入り自由……」
合鍵を渡してるという意味じゃなくて、シャルルはヘアピンで開けてしまうから、という意味だったんだけど、おっちゃんはやっぱりなという顔をしてビール臭い息を深く長く吐いた。
「女は素直が一番。帰ってきたら、ちゃんと謝って、思いっきり甘えて可愛がってもらいなさい」
う、う、うわーんっ‼
本当はあたしだって会いたい‼
甘えたいし、可愛がってほしい‼
それを泣く泣く諦めたというのに、家にまで帰れないなんて、この先どうすればいいんだろう⁉
薫のところに行こうかな⁉
「おっちゃん、国立は先回りされる?」
「絶対無理」
ううむ、それなら行ってもいいけど、薫の家はシャルルが当たりをつけて来そうね。
「横浜は?」
「だからさっきいっただろ。JRさんの成田エキスプレスは横浜方面には強いって。横浜なら先回りされるな」
あたしは心で和矢の顔に大きくバツをした。
それにシャルルが好きだからって別れてもらったばかりなのに頼っちゃあいけないわ。
あたしのあんぽんたん。
「甲府は⁉」
「甲府⁉ いきなり山を越えたな。もちろん先回りできない。甲府へは新宿発の特急かいじに乗車するしかないが、追いかけてきた彼が新宿に着いた時にはお嬢さん、あんたは特急の中さ」
じゃあいっそ美女丸を頼ろうか。
でもシャルルは甲府に行ったことがある。
あいつのことだから、一回の来訪でも正確に住所を覚えているに違いない。
となれば、危険だわ!
「トマムは⁉」
「へっ⁉ 北海道のかい? そんなもん、たとえ千歳行きにしろ1日に数十本しか飛行機がない上、保安検査とかしていたら追いつかれるに決まってるだろ⁉」
カバちゃんのところもダメ。
う~~~
一体あたしはどこに行けばいいの⁉
どうすれば……
あたまをボリボリとかきむしると、おっちゃんが露骨に体を背けた。
失礼ね!
昨夜は4日ぶりにちゃんと銭湯行ったわよ、シャルルに再会すると思ってたもん‼
とイラつきつつ、悩むことしばしーー
あたしは閃いた。
そうだ!その手があった。
才能も美貌もないあたしの唯一の財産、秘蔵の友達バインダー‼
美都やそのほか、全国津々浦々にいる友達のところなら、絶対にシャルルにはわからない……‼
千人以上の住所電話番号を全て覚えてはいないけど、おお、何人かはよみがえる、行けるわ!
「ねえ、おっちゃん、小菅はどう?」
「小菅か、うーん……」
少しだけ考えた後、おっちゃんは再び時刻表を取り出した。
めくって、溜息をひとつ。
「上野乗りかえであんたが小菅に着くのが11時51分。
一方、あの彼が、このスカイライナーの発車直後の10時47分に反対側のホームから発車する成田スカイアクセス特急に乗ったとする。彼は成田から数えて6つ目の京成高砂駅で降りて、11時33分発の京成本線に乗り換え、4つ目の京成関屋駅で下車し、そこから徒歩で東武伊勢崎線牛田駅に移動して、11時47分発東武スカイツリーラインに乗車、小菅着が11時57分となる」
「すぐあとに来るじゃない!」
「だが、先回りはできない」
時刻表をパタンと閉じながらきっぱりと言われて、あたしは考えた。
万が一、あたしが小菅に向かったとシャルルが予測したとして、6分あたしの方が早い。
その6分で、門まで行ければ、あとは住宅地に紛れてトンズラしちまえばいい。
よし!決めた!
「小菅に行くわ」
小菅は思い出の地なんだというと、おっちゃんは驚いた顔になった。
「でもよお、本人をまいといて、ひとりで行ってどーすんの?」
そうね、あたしにもうまく説明できない。
だけど、あそこでシャルルは誰よりも深くて、激しくて、誰も想像もしなかった愛の形をあたしたちに見せつけた。
原野にはひとりで佇むような孤独を引き受けながら、あたしが罪悪感をもたないように、和矢との新生活を重荷なく始めていけるように、この世のものとは思えないほど美しく笑って見せてくれた。
あたしはあの時、シャルルに惚れたのだと思う。
最後のシャルルの笑顔が、どんなに和矢と楽しい時間を重ねても忘れられなかった。
どんなことをしても、心の奥底に刻まれてーー
「おっちゃん、あたしは漫画家なの」
「へえ」
「女の子たちが喜ぶ作品を描くことがあたしの仕事。でもシャルルといたら、幸せで、漫画がどうでもよくなりそうで怖いの。だって、そんなのあたしじゃないもん。だからサヨナラするって決めたのよ」
「好き合ってるのにかい?」
「うん」
「ふうん、わかんねぇな。ーーで、せっかくサヨナラしたのに思い出の小菅に行く意味はなんだい?」
「最後に見ておきたいっていうか、ひとりで生きていく通過儀礼っていうか。ほら! 動物が巣穴に帰るようなものよ、わっはっは!」
おっちゃんは同情に満ちた目であたしを見て、言った。
無理すんなって言われてるみたいで、あたしは慌ててのこりのビールに口をつけた。
「でもよお、お嬢ちゃん」
案の定、おっちゃんは言った。
「これから収監されるって顔してるぜ、本気で大丈夫なのかい? 悪いことは言わないから、ちゃんと彼氏と連絡とってみちゃあどうだい?」
「だから、しないってば‼」
「素直じゃねえなぁ」
そんなことを話しているうちに、スカイライナーがトンネルに入り、やがて京成上野駅に到着した。
本当にあっという間!
おっちゃんはサッサと立って、振り向きざまに軽く手を上げた。
「じゃあな、嬢ちゃん。しつこいようだが、女は素直が一番だ。逃げるのはやめて彼氏と仲良くするのをオレはおススメするぜ。漫画家もいいが、その方がきっとしあわせになれるしな、うひゃうひゃうひゃ」
下品に笑いながらウインクするおっちゃんと別れてあたしは憤然とホームへ降り立った。
売店も閉じ、なんだか薄暗いホームを大勢の人が改札に向かって足早に歩いていくその流れに身を滑らせるように、あたしもSuicaと特急券を手に駆け出した。
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特急券は、車内で購入した。
トンネルを出た途端、田舎を感じさせる田園風景が目に飛び込んだ。
刈り入れが終わった後の田にタネを蒔いているようで、腰を曲げて作業する人影が流れるように過ぎていく。
「やっぱり速いなぁ。この電車」
あたしのひとり言を聞きつけたらしく、となりのおっちゃんが、にやっとして覗き込んできた。
「当たり前だよ。時速160キロだ。他なんか目じゃない。京成スカイライナーが一番速く都心に出られるのさ。あっ、ちなみにオレの親父は京成電車の元取締役。愛する千葉のために忠勤した立派な親父だよ」
え。
ということは、このおっちゃんはこの電車会社の偉いさん⁉
すごいわ、できればお近づきになりたい、ゴロニャーンニャン♪
それを尋ねると、おっちゃんはゆたかなお腹を叩いて笑った。
「いや。親父が取締役だったのは30年前だ。ちなみにオレは電気関係の会社の安サラリーマン」
あたしはがっくりと落胆した。
それに30年前にはスカイライナーなかったでしょう‼
とんだほらふきオヤジだわ‼
あたしが文句を言うと、彼は愉快そうに肩を揺らせた。
「ま、怒るなよお嬢さん。親父が会社のために一所懸命尽くしたのは本当さ。オレもガキの頃からお袋と妹と一緒に京成電車に乗ってさ。家族割引きなんてのが当時はあったんだよ。本気で親父がこの会社を動かしてるんだって信じてた。その親父は定年してすぐぽっくりいっちまったけど。親父たちの世代が頑張ったからこそ、こんなに素晴らしい電車が走るようになったんだ。
ところでお嬢ちゃん、よく冷えたビールはどうだい?」
おっちゃんは黒い鞄から薄く霜が張った缶ビールを二本取り出した。
「ちょうだい!」
わーんっ、責めないで‼
シャルルと追いかけっこしたから、喉がカラカラなのよ、このままじゃマリナの干物よぉ。
「乾杯!」
あたしたちは缶の縁を合わせた。
「おーーーっいい飲みっぷりだねえ、そういう子、好きだよ」
そうして、あたしたちは意気投合、おっちゃんの持っていた柿ピーを肴に、あっという間に最初のビールを飲み干した。
おっちゃんは「まだあるぜ」とニヤニヤしながら次の缶を取り出した。
「オレさぁ、今日は同窓会に行くんだよ。大学の。こう見えて早稲田なんだよ。3ヶ月前からスーツ買って楽しみにしてたら、今朝になってスーツがはいらなくてさ。嫁は適当な格好で行けっていうし、娘には呆れられるし、さんざんだよぉ。千葉の名産ピーナッツ、食べる?」
初対面のあたしに対して物惜みしないこの態度。
ああ、なんて素敵な人かしら‼
いえ、別にブラビやアランドロンに似てるとか、よく見るとマイケル・ジョーダンの血筋に見えるとか、そんな事は決してないわ。
よくいる太めのおっちゃん。
たとえ11月なのにポロシャツとスラックスというおそろしくセンスのない服装をしていようとも、缶ビールを置けちゃうぐらいお腹がでていようど、口が臭くて笑い方が下品で唾を飛ばしながら喋ろうとも、食べ物を独り占めするイケメンより、あたしははるかに好きだわ、一緒に旅するなら絶対こっち‼
二本目がお互いにつきそうになったころ、おっちゃんがあたしに顔を近づけていった。
「成田であんたを追いかけてきたあの外人はなんだい? ストーカーなら警察行った方がいいぜ」
あたしはビールをもう少しで吹き出すところだった。
「違うの! 彼は」
「彼は?」
「彼はね……」
友達よ、といいかけて、あたしは言葉に詰まってしまった。
そっかぁ……あたしとシャルルって友達なのよね。
自分でそうなるように決めといて、口に出そうとすると、ものすごく激しい抵抗感みたいなものがあたしの口を動かなくさせていた。
あたしは唇を舐めて噛みながら思った。
これが好きってことなんだーー
「ただの友達よ。
おっちゃんも見たならわかるでしょ?
あんなにカッコいい人があたしのストーカーにはならないわ。ちょっとした勘違いがあって、仲がこじれちゃっただけ」
おっちゃんは眉間に深い皺を寄せて顔を引き、「ふうん」と唸った。
「友達だったら、ふつうに仲直りすればいいじゃねぇか。なんであんな騒ぎに」
「そうなんだけどね。あたし、急いでたから」
「いくら急いでいたからって、あんな別れ方するか? 最近の若い人は」
「たっ、たぶん、フランス流よ! 派手で困るわよねー! だから成田から一番速く都心に帰れるスカイライナーに乗ったのよ」
「そりゃ、わが京成を愛顧してくださりどうも」
おっちゃんは気取って頭を下げた。
でも、顔を上げたその目つきは、ふーん、と言いたげな感じで、あたしの説明に全く納得していない雰囲気がありありと出ていて、あたしはいたたまれず話題を転じることにした。
困った時は別のことを考えさせるの、これが一番‼
「あたし、飯田橋に帰るんだけど、先回りされないよね?」
おっちゃんはヒゲを撫でてから、鞄から年季の入った時刻表を出してペラペラめくって、言った。
「時刻表はいつでも持ち歩けって父親の教えなんだ。えーっと、飯田橋飯田橋……
ーー絶対先回りは無理だ。このスカイライナーは10時42分発、京成上野駅に11時間23分に着くから上野御徒町駅まで歩いて11時40分発の大江戸線にのれば、飯田橋駅には11時46分に到着する。鳥だってこれほど速く移動できないぜ」
「成田エキスプレスを使って先回りしてこない?」
「JRさんは、横浜方面に行くには便利だが、飯田橋に先回りは、ま、200%できねえな。あんたが飯田橋に到着後、20分以上遅れて到着するだろうよ」
「そうなんだ……」
「だからスカイライナーは一番早く都心に着くって言ったろ? たとえヘリを使っても、先回りは無理だ」
「ヘリでも⁉」
あたしが迫ると、おっちゃんは時刻表を脇へ置きながら「お、おお…」と、少し気圧された様に仰け反った。
「だってあの外人はスカイライナーが出る時ホームにいただろ? あっこからヘリを要請なんて普通の人間にはできないぜ」
「普通の人間じゃないのよ」
「へ⁉ ……ま、とにかくすぐにヘリが使えて空港のヘリポートも使用できたとしよう。でもヘリってのは飛行の際必ず飛行許可証を空港事務局に申請する義務があるんだ。申請せず、超低空飛行でいけばレーダーに引っかからずに行けるかもしれないが、事前の打ち合わせなしにそんなヤバイ仕事を受ける人間はいない。
つまり、急に思い立ったからって飛べるようなものじゃないんだよ、ヘリってヤツは。ドラマや漫画では都合よくビュンビュン飛んでるけどね」
へええ。
たしかにここは日本。
まさかシャルルも、あたしが逃げると想定してヘリまで用意してないだろう。
じゃあ、あたしは飯田橋に帰って大丈夫ってわけね。
喜んであたしがそういうと、おっちゃんが、
「あんた、バカだろ?」
ムカッ!
「ストーカーだか友達だか知らんが、その外人は君には用があるのだろう? なら家まで当然くるに決まってるじゃないか」
あ!
「それとも家は知られてないのか?」
あたしは青ざめて首を振り、
「知られてるどころか、出入り自由……」
合鍵を渡してるという意味じゃなくて、シャルルはヘアピンで開けてしまうから、という意味だったんだけど、おっちゃんはやっぱりなという顔をしてビール臭い息を深く長く吐いた。
「女は素直が一番。帰ってきたら、ちゃんと謝って、思いっきり甘えて可愛がってもらいなさい」
う、う、うわーんっ‼
本当はあたしだって会いたい‼
甘えたいし、可愛がってほしい‼
それを泣く泣く諦めたというのに、家にまで帰れないなんて、この先どうすればいいんだろう⁉
薫のところに行こうかな⁉
「おっちゃん、国立は先回りされる?」
「絶対無理」
ううむ、それなら行ってもいいけど、薫の家はシャルルが当たりをつけて来そうね。
「横浜は?」
「だからさっきいっただろ。JRさんの成田エキスプレスは横浜方面には強いって。横浜なら先回りされるな」
あたしは心で和矢の顔に大きくバツをした。
それにシャルルが好きだからって別れてもらったばかりなのに頼っちゃあいけないわ。
あたしのあんぽんたん。
「甲府は⁉」
「甲府⁉ いきなり山を越えたな。もちろん先回りできない。甲府へは新宿発の特急かいじに乗車するしかないが、追いかけてきた彼が新宿に着いた時にはお嬢さん、あんたは特急の中さ」
じゃあいっそ美女丸を頼ろうか。
でもシャルルは甲府に行ったことがある。
あいつのことだから、一回の来訪でも正確に住所を覚えているに違いない。
となれば、危険だわ!
「トマムは⁉」
「へっ⁉ 北海道のかい? そんなもん、たとえ千歳行きにしろ1日に数十本しか飛行機がない上、保安検査とかしていたら追いつかれるに決まってるだろ⁉」
カバちゃんのところもダメ。
う~~~
一体あたしはどこに行けばいいの⁉
どうすれば……
あたまをボリボリとかきむしると、おっちゃんが露骨に体を背けた。
失礼ね!
昨夜は4日ぶりにちゃんと銭湯行ったわよ、シャルルに再会すると思ってたもん‼
とイラつきつつ、悩むことしばしーー
あたしは閃いた。
そうだ!その手があった。
才能も美貌もないあたしの唯一の財産、秘蔵の友達バインダー‼
美都やそのほか、全国津々浦々にいる友達のところなら、絶対にシャルルにはわからない……‼
千人以上の住所電話番号を全て覚えてはいないけど、おお、何人かはよみがえる、行けるわ!
「ねえ、おっちゃん、小菅はどう?」
「小菅か、うーん……」
少しだけ考えた後、おっちゃんは再び時刻表を取り出した。
めくって、溜息をひとつ。
「上野乗りかえであんたが小菅に着くのが11時51分。
一方、あの彼が、このスカイライナーの発車直後の10時47分に反対側のホームから発車する成田スカイアクセス特急に乗ったとする。彼は成田から数えて6つ目の京成高砂駅で降りて、11時33分発の京成本線に乗り換え、4つ目の京成関屋駅で下車し、そこから徒歩で東武伊勢崎線牛田駅に移動して、11時47分発東武スカイツリーラインに乗車、小菅着が11時57分となる」
「すぐあとに来るじゃない!」
「だが、先回りはできない」
時刻表をパタンと閉じながらきっぱりと言われて、あたしは考えた。
万が一、あたしが小菅に向かったとシャルルが予測したとして、6分あたしの方が早い。
その6分で、門まで行ければ、あとは住宅地に紛れてトンズラしちまえばいい。
よし!決めた!
「小菅に行くわ」
小菅は思い出の地なんだというと、おっちゃんは驚いた顔になった。
「でもよお、本人をまいといて、ひとりで行ってどーすんの?」
そうね、あたしにもうまく説明できない。
だけど、あそこでシャルルは誰よりも深くて、激しくて、誰も想像もしなかった愛の形をあたしたちに見せつけた。
原野にはひとりで佇むような孤独を引き受けながら、あたしが罪悪感をもたないように、和矢との新生活を重荷なく始めていけるように、この世のものとは思えないほど美しく笑って見せてくれた。
あたしはあの時、シャルルに惚れたのだと思う。
最後のシャルルの笑顔が、どんなに和矢と楽しい時間を重ねても忘れられなかった。
どんなことをしても、心の奥底に刻まれてーー
「おっちゃん、あたしは漫画家なの」
「へえ」
「女の子たちが喜ぶ作品を描くことがあたしの仕事。でもシャルルといたら、幸せで、漫画がどうでもよくなりそうで怖いの。だって、そんなのあたしじゃないもん。だからサヨナラするって決めたのよ」
「好き合ってるのにかい?」
「うん」
「ふうん、わかんねぇな。ーーで、せっかくサヨナラしたのに思い出の小菅に行く意味はなんだい?」
「最後に見ておきたいっていうか、ひとりで生きていく通過儀礼っていうか。ほら! 動物が巣穴に帰るようなものよ、わっはっは!」
おっちゃんは同情に満ちた目であたしを見て、言った。
無理すんなって言われてるみたいで、あたしは慌ててのこりのビールに口をつけた。
「でもよお、お嬢ちゃん」
案の定、おっちゃんは言った。
「これから収監されるって顔してるぜ、本気で大丈夫なのかい? 悪いことは言わないから、ちゃんと彼氏と連絡とってみちゃあどうだい?」
「だから、しないってば‼」
「素直じゃねえなぁ」
そんなことを話しているうちに、スカイライナーがトンネルに入り、やがて京成上野駅に到着した。
本当にあっという間!
おっちゃんはサッサと立って、振り向きざまに軽く手を上げた。
「じゃあな、嬢ちゃん。しつこいようだが、女は素直が一番だ。逃げるのはやめて彼氏と仲良くするのをオレはおススメするぜ。漫画家もいいが、その方がきっとしあわせになれるしな、うひゃうひゃうひゃ」
下品に笑いながらウインクするおっちゃんと別れてあたしは憤然とホームへ降り立った。
売店も閉じ、なんだか薄暗いホームを大勢の人が改札に向かって足早に歩いていくその流れに身を滑らせるように、あたしもSuicaと特急券を手に駆け出した。
next