瞳をとじて
前編
19XX年4月X日午後7時
パリ19区、市警支部
「おや、カーク、今夜はもう終わりかい?」
「そうなんですよ。今日は犯罪ゼロ。坂の上老女殺人事件は昨日解決したし、かっぱらいもスリもなくて、すげー平和な日だったんで、久々の定時上がりです」
署の前を警備するベテラン制服警官アルニーはニヤリと笑って、右手で飲む仕草をした。
「これから、これかい?」
「いえ、アパルトマンに帰ります。引っ越し荷物がまだそのままなんで」
「引っ越し荷物って、あんたここに赴任してきたの1月だろ? まだダンボールの中で寝てんのかい?」
「ひでーなぁ、おやっさん。そこ、ツッコミます?」
拗ねた顔をすると、アルニーはやれやれとばかりに苦笑いした。
「いや、そうだな。刑事課の忙しさは尋常じゃないもんな。早く嫁さんもらえばいいのさ」
「なっ……オレはまだ二十歳ですよ!」
「我が国では結婚が許されているぞ。よければオレの親戚の娘を紹介してやろうか?」
「とっ、とんでもない! お疲れ様でした!」
オレが泡を食いながら署を背にすると、アルニーが大声で言った。
「シーツでも抱いてよく寝ろよー。寂しくなったらいつでもいえよ、極上の嫁さん世話してやっからなー」
いつもこうだ。なぜかわからないが、オレは署で仲間たちにおもちゃにされる。
手をほおに当てた。熱い。絶対赤面しているに違いない。この赤面症のせいで、からかわれるんだ。
いまいましく思いながら、ジーパンに両手を突っ込んで夜風を切って歩いていると、大通りから一本裏に入ったいかがわしいホテルの前で、チンピラ風情の男が4、5人、騒いでいるのが目に入った。
どうも、誰かにヤキを入れているらしい。
「おいおい、やめろ」
一人の肩を掴むと、「なんだお前」とすごんできたので、警察手帳を見せた。
「つまんねえ暴行罪でパクられたくなかったら、さっさと散れ」
「クソ!」
男は街路樹がしなるほどけとばした。それから男達は口汚なく罵りながら、道路に唾を吐いてその場を後にした。
やられていた男は体をくの字に曲げて、うなだれたままピクリともしない。
「おい、大丈夫か? 救急車呼ぶか? 金がかかるけど」
腕を掴んで上背を起こして、オレは目を見張った。何度も瞬いて、目の前の男を確認する。
「シャ……ルル?」
彼はゆっくりと顔を上げてオレを見た。
「おい、マジでシャルルかよ⁉ オレだよオレ、カークだよ! まさかこんなところで君に会うとは思わなかった」
間違いない。ひどく殴られて、ほおやまぶたは腫れ上がり、血だらけだが。
元が美しいだけに、その痛々しさが一層際立つ。
「どうしたんだ……?」
シャルルは手負いの獣のような目で睨むと、オレの手を乱暴に振り払って歩き出した。
「ちょ、まてよ!」
腹を抱えてふらふらと歩いていくシャルル。
しかしーー
「シャルル‼」
彼は、数歩先で、膝から崩れ折れた。
***
なんとかシャルルを立たせて、タクシーで送っていこうとすると、驚いたことに「家はない」という。
どういうことだ? アルディ家は?
聞きたかったが、路上で込み入った話をするわけにもいかず、何よりシャルルが今にも気を失いそうであったため、メニルモンタンの坂の上にあるオレのアパルトマンに連れて帰った。
5階まで運ぶのは大変だった。痩せて見えるのに、シャルルは意外と逞しい体躯をしていた。
オレの部屋はワンルームにミニキッチンがついたタイプ。それにシャワールームが別にある。
ダンボールが積まれた部屋に入ったとたん、シャルルは長い髪の間から虚ろな目でひとこと言った。
「まるでスラムだ」
変わってないな。前の住まいに来た時は照明やカーテンの色がどうのとうるさかったが、そういう点を指摘できないのは体がキツイ証拠か。
ソファに寝かせて、傷の手当てをしようとすると拒否された。
「それよりカフェをくれ……」
「水でなくていいのか?」
「濃いのが欲しい」
気つけにするのだろうか。言われた通りに濃いカフェを淹れて提供すると、自分のハンケチで顔の傷をぬぐい終わったシャルルは静かにそれを飲んだ。
オレもカフェを飲みながら、訊いた。
「なあ、シャルル。アルディ家はどうしたんだ?」
シャルルは伏せ目がちに答えた。
「出た」
「出た⁉」
両手でマグを持ち、シャルルは冷めた眼差しでカフェの水面を見つめていた。
「今はただのホームレスだ。取り締まるなら取り締まれよ」
「いや……」
シャルルは動揺するオレをチラッと見て、鼻でフンと笑い、またカフェを啜った。
オレは困惑した。
アルディ家は、当主に大きな権利が与えられる代わりに、資格喪失者には厳罰が加えられる。地中海にある……たしかマルグリットという島に幽閉される決まりだったはずだ。
「去年末、当主に戻るためにあれだけ大変な苦労をしてたんだろ。オレとボイエ警部の捜査に協力までしてくれてさ……政治工作の実行犯は逮捕できたし、君は当主に戻れたし、万々歳だと思ってたんだ。それなのに、なぜ家を出たんだ? 許されたのか?」
「許されるわけないだろ。アルディは妖怪ばっかりだからな。だから、アホな妖怪でも納得出来るよう家訓を変えたのさ」
「妖怪……相変わらず口が悪いね。それはともかく、そんなに簡単に家訓って変えられるのか?」
「この世に金で買えないものはないさ」
シャルルは自嘲的に笑った。見ているオレの方が傷ついてしまいそうなほど、苦しげな笑い方だった……
シャルルはカップをダンボールの上に置き、ソファに横になった。背もたれに腹をつけ、オレに背を向ける。
「電気を消してくれ」
「あ、ああ」
立ち上がって、電気を消した。実は、オレの部屋にはまだカーテンがない。
引っ越して3ヶ月。事件に追われて、買いに行く暇が無かったのだ。まさか男一人の部屋を覗く物好きもいるまい。
街明かりが部屋を照らしていた。
オレはシャルルの背中を見つめた。
息をしているのか?と訝るほど、静かだった。
汚れたシャツとパンタロン。長い髪もどことなく汚くて。
らしくなかった。
「なあシャルル。金で買えないものはこの世にたくさんあるよ。信頼とか友情とか、励まし合ったり助け合ったりする心とか。年末のオレ達はそうだったじゃないか」
数秒の間が空いてから、低い声で応答があった。
「……そう思いたいなら、思っていればいいだろう。だが、はっきり言っておく。金で買えないものなんか、絶対にないんだ」
「どうしてそう思うんだい? 君にだって……」
シャルルは家族に恵まれなかった。
「オレやジルやマリナがいる。君は一人じゃない。みんな、シャルルのことを、金なんかよりも大事だと思ってるよ」
すると、しばしの沈黙が広がった。
オレの言葉を噛み締めてくれているのかと、期待して冷めたカフェを口に運ぶ。
だか、いつまで待ってもシャルルからの返事はなかった。
諦めて、シャルルにバスタオルをかけ、それから使用した二つのカップとドリッパーを洗い、シャワーを浴び、眠るためにベッドに入った。
シャルルはどうしたんだろう?
なぜアルディ家を出たんだろう?
肝心な事を何も聞けなかった。オレで話し相手になるのなら、聞いてあげたい。ほっておけない。
そんなことを考えているうちに、オレは眠っていた。
***
翌朝、午前6時。
いつもの出勤時間に合わせて、目が覚めてしまった。今日は休みだというのに。
ベッドのなかで思い切り背伸びをすると、リラックスできて、やはり休日なのだと確信した。出勤日ならば急いでカフェを淹れ髭を剃り洗面をして着替えて出かけねばならない。
「そうだ、シャルルがいたんだった……」
ベッドから降りたところでシャルルの背中をソファに見つけて、昨日のことを思い出した。
疲れているだろうから、ゆっくり休ませてあげよう。
そう思いながら、彼の様子を伺ってハッとした。
「シャルル……?」
朝日の眩しい部屋の中で。
昨夜、かけてあげたバスタオル。
傷だらけの顔をしたシャルルは、それをきつく抱きしめて眠っていた。
伏した眼を覆う長い睫毛は、湖から上がってきたばかりの白鳥のように、キラキラとした水滴を孕んで、悲しげに濡れていた。
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前編
19XX年4月X日午後7時
パリ19区、市警支部
「おや、カーク、今夜はもう終わりかい?」
「そうなんですよ。今日は犯罪ゼロ。坂の上老女殺人事件は昨日解決したし、かっぱらいもスリもなくて、すげー平和な日だったんで、久々の定時上がりです」
署の前を警備するベテラン制服警官アルニーはニヤリと笑って、右手で飲む仕草をした。
「これから、これかい?」
「いえ、アパルトマンに帰ります。引っ越し荷物がまだそのままなんで」
「引っ越し荷物って、あんたここに赴任してきたの1月だろ? まだダンボールの中で寝てんのかい?」
「ひでーなぁ、おやっさん。そこ、ツッコミます?」
拗ねた顔をすると、アルニーはやれやれとばかりに苦笑いした。
「いや、そうだな。刑事課の忙しさは尋常じゃないもんな。早く嫁さんもらえばいいのさ」
「なっ……オレはまだ二十歳ですよ!」
「我が国では結婚が許されているぞ。よければオレの親戚の娘を紹介してやろうか?」
「とっ、とんでもない! お疲れ様でした!」
オレが泡を食いながら署を背にすると、アルニーが大声で言った。
「シーツでも抱いてよく寝ろよー。寂しくなったらいつでもいえよ、極上の嫁さん世話してやっからなー」
いつもこうだ。なぜかわからないが、オレは署で仲間たちにおもちゃにされる。
手をほおに当てた。熱い。絶対赤面しているに違いない。この赤面症のせいで、からかわれるんだ。
いまいましく思いながら、ジーパンに両手を突っ込んで夜風を切って歩いていると、大通りから一本裏に入ったいかがわしいホテルの前で、チンピラ風情の男が4、5人、騒いでいるのが目に入った。
どうも、誰かにヤキを入れているらしい。
「おいおい、やめろ」
一人の肩を掴むと、「なんだお前」とすごんできたので、警察手帳を見せた。
「つまんねえ暴行罪でパクられたくなかったら、さっさと散れ」
「クソ!」
男は街路樹がしなるほどけとばした。それから男達は口汚なく罵りながら、道路に唾を吐いてその場を後にした。
やられていた男は体をくの字に曲げて、うなだれたままピクリともしない。
「おい、大丈夫か? 救急車呼ぶか? 金がかかるけど」
腕を掴んで上背を起こして、オレは目を見張った。何度も瞬いて、目の前の男を確認する。
「シャ……ルル?」
彼はゆっくりと顔を上げてオレを見た。
「おい、マジでシャルルかよ⁉ オレだよオレ、カークだよ! まさかこんなところで君に会うとは思わなかった」
間違いない。ひどく殴られて、ほおやまぶたは腫れ上がり、血だらけだが。
元が美しいだけに、その痛々しさが一層際立つ。
「どうしたんだ……?」
シャルルは手負いの獣のような目で睨むと、オレの手を乱暴に振り払って歩き出した。
「ちょ、まてよ!」
腹を抱えてふらふらと歩いていくシャルル。
しかしーー
「シャルル‼」
彼は、数歩先で、膝から崩れ折れた。
***
なんとかシャルルを立たせて、タクシーで送っていこうとすると、驚いたことに「家はない」という。
どういうことだ? アルディ家は?
聞きたかったが、路上で込み入った話をするわけにもいかず、何よりシャルルが今にも気を失いそうであったため、メニルモンタンの坂の上にあるオレのアパルトマンに連れて帰った。
5階まで運ぶのは大変だった。痩せて見えるのに、シャルルは意外と逞しい体躯をしていた。
オレの部屋はワンルームにミニキッチンがついたタイプ。それにシャワールームが別にある。
ダンボールが積まれた部屋に入ったとたん、シャルルは長い髪の間から虚ろな目でひとこと言った。
「まるでスラムだ」
変わってないな。前の住まいに来た時は照明やカーテンの色がどうのとうるさかったが、そういう点を指摘できないのは体がキツイ証拠か。
ソファに寝かせて、傷の手当てをしようとすると拒否された。
「それよりカフェをくれ……」
「水でなくていいのか?」
「濃いのが欲しい」
気つけにするのだろうか。言われた通りに濃いカフェを淹れて提供すると、自分のハンケチで顔の傷をぬぐい終わったシャルルは静かにそれを飲んだ。
オレもカフェを飲みながら、訊いた。
「なあ、シャルル。アルディ家はどうしたんだ?」
シャルルは伏せ目がちに答えた。
「出た」
「出た⁉」
両手でマグを持ち、シャルルは冷めた眼差しでカフェの水面を見つめていた。
「今はただのホームレスだ。取り締まるなら取り締まれよ」
「いや……」
シャルルは動揺するオレをチラッと見て、鼻でフンと笑い、またカフェを啜った。
オレは困惑した。
アルディ家は、当主に大きな権利が与えられる代わりに、資格喪失者には厳罰が加えられる。地中海にある……たしかマルグリットという島に幽閉される決まりだったはずだ。
「去年末、当主に戻るためにあれだけ大変な苦労をしてたんだろ。オレとボイエ警部の捜査に協力までしてくれてさ……政治工作の実行犯は逮捕できたし、君は当主に戻れたし、万々歳だと思ってたんだ。それなのに、なぜ家を出たんだ? 許されたのか?」
「許されるわけないだろ。アルディは妖怪ばっかりだからな。だから、アホな妖怪でも納得出来るよう家訓を変えたのさ」
「妖怪……相変わらず口が悪いね。それはともかく、そんなに簡単に家訓って変えられるのか?」
「この世に金で買えないものはないさ」
シャルルは自嘲的に笑った。見ているオレの方が傷ついてしまいそうなほど、苦しげな笑い方だった……
シャルルはカップをダンボールの上に置き、ソファに横になった。背もたれに腹をつけ、オレに背を向ける。
「電気を消してくれ」
「あ、ああ」
立ち上がって、電気を消した。実は、オレの部屋にはまだカーテンがない。
引っ越して3ヶ月。事件に追われて、買いに行く暇が無かったのだ。まさか男一人の部屋を覗く物好きもいるまい。
街明かりが部屋を照らしていた。
オレはシャルルの背中を見つめた。
息をしているのか?と訝るほど、静かだった。
汚れたシャツとパンタロン。長い髪もどことなく汚くて。
らしくなかった。
「なあシャルル。金で買えないものはこの世にたくさんあるよ。信頼とか友情とか、励まし合ったり助け合ったりする心とか。年末のオレ達はそうだったじゃないか」
数秒の間が空いてから、低い声で応答があった。
「……そう思いたいなら、思っていればいいだろう。だが、はっきり言っておく。金で買えないものなんか、絶対にないんだ」
「どうしてそう思うんだい? 君にだって……」
シャルルは家族に恵まれなかった。
「オレやジルやマリナがいる。君は一人じゃない。みんな、シャルルのことを、金なんかよりも大事だと思ってるよ」
すると、しばしの沈黙が広がった。
オレの言葉を噛み締めてくれているのかと、期待して冷めたカフェを口に運ぶ。
だか、いつまで待ってもシャルルからの返事はなかった。
諦めて、シャルルにバスタオルをかけ、それから使用した二つのカップとドリッパーを洗い、シャワーを浴び、眠るためにベッドに入った。
シャルルはどうしたんだろう?
なぜアルディ家を出たんだろう?
肝心な事を何も聞けなかった。オレで話し相手になるのなら、聞いてあげたい。ほっておけない。
そんなことを考えているうちに、オレは眠っていた。
***
翌朝、午前6時。
いつもの出勤時間に合わせて、目が覚めてしまった。今日は休みだというのに。
ベッドのなかで思い切り背伸びをすると、リラックスできて、やはり休日なのだと確信した。出勤日ならば急いでカフェを淹れ髭を剃り洗面をして着替えて出かけねばならない。
「そうだ、シャルルがいたんだった……」
ベッドから降りたところでシャルルの背中をソファに見つけて、昨日のことを思い出した。
疲れているだろうから、ゆっくり休ませてあげよう。
そう思いながら、彼の様子を伺ってハッとした。
「シャルル……?」
朝日の眩しい部屋の中で。
昨夜、かけてあげたバスタオル。
傷だらけの顔をしたシャルルは、それをきつく抱きしめて眠っていた。
伏した眼を覆う長い睫毛は、湖から上がってきたばかりの白鳥のように、キラキラとした水滴を孕んで、悲しげに濡れていた。
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