新妻に愛は舞い降りて
『そうですね。必要なものは愛する相手を理解すること。
若い時というものはみんな自分を理解してもらうことばかりに夢中になりますからね。
それは大いに反省すべきところですね。
アルディ家当主秘書ジル・ド・ラ・ロシェルは語る
ある寒い夜の暖炉のそばで、小さな双子の兄弟に。』
「マリナはどこに行った!?」
シャルルの怒号がアルディ家の屋敷に響き渡った。当主がこうやって叫ぶときは決まって機嫌がすこぶる悪いとこの屋敷に努める使用人は熟知しているので、みな戦慄しながら、行方不明の奥方を探した。しかしどこにも彼女は見当たらなかった。
結婚二年目の新妻が迷子になるのはこれで二十回目だ。
執事は顔ざめた。このままでは当主はまたカプセルに閉じこもってしまうかもしれない。
そうなるとアルディ家の醜聞である。最近、当主はカプセルに入ることを隠さなくなった。愛する妻と喧嘩した時のみ入るからである。天才と誉れ高い当主が子供のように大げさに騒ぎ立てて、カプセルに閉じこもることを、執事を筆頭とするアルディ家の使用人達は密かに微笑ましく思っている。
ーーのだが。
「マリナはどこだ!? あと十分で探し出せないならば、全員の夏季バカンスは無しだ!!」
バカンスが無し?
ああ、そうですか。どうぞおやりくださいまし。全員すぐさま退職いたします、といってやりたい。
だが、言ったら最後、二度とまともな生活が営めないように、この当主はフランス国中に手を回すだろう。
だが、言ったら最後、二度とまともな生活が営めないように、この当主はフランス国中に手を回すだろう。
夫婦喧嘩はやめて欲しい。どうせすぐに砂糖菓子のようにベタベタするのだから。
「奥方様ならば、おそらく、ゆりかごの部屋では? お乳の時間では?」
「さっき見た。いなかった」
咳払いをひとつして、執事は付け加える。ちょび髭が揺れた。
「ゆりかごの部屋の中でも、あそこです。いつもの場所でございますよ」
ああ、というため息交じりの声が当主から漏れた。そして彼はくるっと回れ右をして、執事に背を向け、廊下の奥へと走り去ってしまった。執事に「妻を連れてこい」と命じてもよいのに、それすらできぬほど気がせいておられるということか。
執事は笑いをこらえながら、慇懃深くお辞儀をしてから、主人のいない当主執務室に入り、不愉快の被害で荒らされた部屋の整理整頓を始めた。
シャルルが息も荒くべべの部屋へ入ると、部屋の中は物音ひとつしなかった。
こだわり抜いたカーテン。初夏の穏やかな日差し。
その中に静かな寝息が二つ。
二つ並んだベビーベッドはシャルルが選び抜いた特注品。
その上には、そっくりな白い美しい顔がスヤスヤと眠っていた。
細い銀の糸のような毛がまきついた形のいい頭。かわいい小さなお手手が二組。足ももちろん二組。産着は水色と白色で、二人の見分けがつくようにしてある。
シャルルはベビーベッドの下を覗き込んだ。双子が生まれたばかりに夫婦喧嘩をした時、やはりここを探したことがあったから。子供達から離れられないのか、と思って、怒っている気持ちが砂のように溶けていったものだった。
今日もここにいた。膝小僧を抱えて、うつむいていた。
目尻には涙の跡。すねたような顔が険しい。
「探したぞ」
シャルルはホッとし、それから少し怒りがこみ上げてきた。どうして彼女はこうオレを心配させるようなことをするんだろう?
「あたしのことなんて、どうでもいいんでしょう?」
「どうしてそういう話になるんだ」
「だって、出かけてばかり」
ツンケンしたマリナの言い方に、気を悪くしたシャルルは顔を覆いながら、首を大きく横に振った。
「マリナ、君、わかっているだろう。オレが忙しいのは仕事だ。仕方がないだろう?」
「わかっているわ」
「だったら、何?」
マリナはきっと顔を上げて、シャルルを睨んだ。涙を含んだ茶色い目が、ベビーベッドの下の暗がりの中でもひどく印象的だった。大人になったとなぜかこんな時にシャルルはそう思った。それは当たり前でーーマリナはもう二十歳の女でーーシャルル自身そのことをよく知っているはずなのだが、暗がりで体育座りをするマリナは少女時代を永遠に脱ぎ去ったようだった。
「そうやって、仕方がないって話をぶった切るところが嫌なのよ。もっとあたしの話を聞いてよ。疲れているのはわかっているけど……少しの時間でいい。向き合って座って、あたしの目を見て、あたしの言葉を聞いて欲しいの」
「オレは君の話を聞いているよ」
「ううん。聞いてくれていない。あんたはベッドに誘えばそれでいいと思っている」
シャルルは言葉に詰まった。確かに女性はそうすれば満足するだろうと思っていた節はある。そしてそれで充足感を与える自身もあった。それが間違っていたというのか?
「君は抱き合うのが嫌いだったのか?」
戸惑いながらシャルルが尋ねると、「そりゃ、好きよ。あたしだってあんたに触れるのは」とマリナは答えた。
「だったらーー」
「でも!」とマリナは強い口調で言った。「言葉を交わしたい時もあるの。ただ求め合うだけなら動物と同じだわ。あたしたちは言葉で信頼関係をもっと強いものにしていける。それが人間でしょう? 夫婦でしょう? シャルル、あたしはあんたを愛しているわ。あんたからも愛しているという言葉を聞きたい。抱き合っているからと言って、言葉がないのは寂しい。思っていることや感じたこと、それから経験したことをお互いに言葉で伝え合う努力をやめないでいたいの」
シャルルは驚いた。自分の気持ちをマリナはわかってくれていると思っていた。だからこそ、家庭を大切にしてきたつもりであった。思いがけなく早く妊娠した彼女を安心させるために、アルディ家の親族連中の理解と同意を取り付け、フランス国中に披露して結婚式を執り行い、マリナをマダム・アルディにした。双胎妊娠とわかり、彼女に負担をかけないよう、家庭に仕事は持ち込まないようにした。
すべてマリナのためだった。
マリナが何かに悩んでいたら、先回りして解決してきた。双子には有能な乳母をつけたし、オレがいない間寂しいだろうと、身元の確かな日本人を数名友人候補にした。漫画がいつでも描けるように漫画用の特別室を設ける一方、産後はホルモンバランスが狂って太りやすいから、カロリーコントロールをした食事を心ゆくまで食べられるようにコックに指示した。日本の家族ともいつでも連絡が取れるように専用ホットラインはもちろん、人工衛星を使ったテレビ電話や電子メールも開通させた。
それでもストレスがあったというのか!?
いささか呆れつつ、シャルルは、低姿勢になって、マリナの方をむいて跪いた。彼女の涙ぐんだ顔を見ているだけで、心が痛み、とてつもなく大きな失策を犯した気持ちに苛まれるのであった。たとえ世界中の女性を喜ばすことができても、マリナを悲しませたならば、生きる価値がない! ああ、マリナ、笑って!!
「出ておいで、マリナ」シャルルは手を伸ばした。「話をしよう。もっといっぱい」
「ほんと……?」
「ああ」シャルルは微笑んでうなずいた。「べべたちはまだ寝ている時間の方が断然長い。パパとママンに夫婦の時間をたっぷりとくれるよ。だから、いっぱいおしゃべりをしよう。今日一番美味しかったケーキの話や、テレビニュースの話や、べべのうんちの色の話とかね」
「そんな話に、本当に付き合ってくれる?」
「ああ。最後にキスさせてくれれば」
マリナは不満そうに睨んで、伸ばしかけていた手をピクンと止めた。
「また、それ? あんたって頭の中、そういうことばっかり」
「そのことのかわいい結晶が頭上に眠っているだろう? この子たちが可愛くないのか?」
「ううう。そりゃあ、可愛いけど」
身を縮ませたマリナを見て、シャルルの嗜虐心は刺激される。散々ののしられた復讐をしなければアルディ当主の名がすたる。
「つまり、もう二人の可愛い子ができたから、そういう行為は不必要で、これからは清い関係でいようというわけだね」
「えっ」
「わかったよ。おしゃべりを頑張ろう」
シャルルはニコッと笑った。マリナは引きつった笑い顔を浮かべて、シャルルの手を慌てて掴んできた。その目に、女の焦りを見たシャルルは大いに満足して、彼女の手を引き寄せて、至近距離からその顔を覗き込む。暗がりで目と目が触れ合ってしまいそうなほどだった。まつげとまつげは重ねなっていた。
彼女の目からは見る間に一粒の涙がこぼれた。
「マリナ。ごめん」
シャルルは片腕でマリナの腰を引き寄せ、もう片方の腕で彼女の頭を抱え込むようにすると、薄く開いた彼女の唇に自分の唇を思いっきり強く押しかぶせた。涙の味がしたそのキスは、最初、彼女は受け身でいたけれども、すぐに、シャルルの首筋に腕を絡めて、自分からも激しく応えてきた。
舌を絡めて、深くキスをする。
「シャルル、好きよ。あんただけが好き。だから、お願い。あたしのことを愛していると言い続けて。あたしに無関心なそぶりを見せないで」
「そんなことがあるものか。オレの世界は永遠に君を中心に回っているんだ」
二人はベビーベッドの下で、時が経つのも忘れて夢中でキスを続けた。……
しばらくして、二人のべべがほぼ同時に泣いた。
「べべ!」
「きゃ、あいた!」
慌てて起き上がろうとした二人は、ベビーベッドの床板で、目一杯頭を打ち付けた。「いったぁ~い……」頭をさするマリナを見て、痛みに顔をしかめるシャルルもウインクをした。
下からの衝撃を受けて、べべたちは一層激しく泣きじゃくる。
二人は大声をあげて笑い、それからやっと立ち上がって、一人ずつを抱き上げてあやし、顔を近づけてまたキスをした。
「なんだか、何に怒っていたのか、わからなくなってきたわ」
「それは何より」
シャルルはべべを抱きながら振り返りニコッと笑った。ーー心でひとつの企みを抱きながら。
今夜はマリナが満足ゆくまで話し相手を務めよう。それからはシャルルの出番である。マリナの骨を溶かすような甘い夜にして、彼女の寂しさを消し去ってみせる。
「シャルル? なに、ニヤついているの?」
シャルルは、開いた口を慌てて閉じた。
『フランス人の男性と、日本人の女性が、
出会って恋をしたってことが、すでに奇跡です。
あなたがたは自分たちの両親について色々と思うでしょうが、
愛を知っている人であるということを何より覚えていてください。
アルディ家当主秘書ジル・ド・ラ・ロシェルは語る
ある寒い夜の暖炉のそばで、小さな双子の兄弟に。』
おわり