第一話の注意事項をお目通しください。
25
一年半後、東京――。
「ここ、少し直してくれる? コマ割りが狭苦しい」
「じゃあ、こっちを削って広くしましょうか」
「……そうね、あと、次のページのベタは重い。せめてかけアミ程度にして軽さを出さないと、ポップな会話とのバランスが悪いわ。後半に重いシーンが続くんだから、前半はライトにしてコントラストをつけた方が絶対いい。あと、この花純が美馬の過去ビデオを見てしまうシーン。フラッシュを入れて花純の衝撃をもっと強調しましょう」
久保の打ち合わせは厳しい。
緊張するマリナの前で、相変わらず趣味のいいスーツに、金の大振りなイヤリングがよく似合う久保は、付箋の張られた原稿をテーブルの上に静かに置いた。
「明日までに直せる?」
「やります」
『新花織高校恋愛スキャンダル』は、ついに最終巻『めぐりあいのデュオ』まで進んだ。
「よろしくね。――そうそう、名シーン投票、いまのところ一番人気が、あそこよ。あのシーン」
「どこですか?」とマリナが訊いた。
「可愛いドレスに身を包んだ花純が、亜絵香の意地悪で冬のプールに飛び込んで足がつって、美馬様が助けに来てくれるところ。傷ついた獣のような顔をしながらも自分を助けてくれた美馬様に、いろいろな事情のために抑え込んでいた彼への恋情を、花純は思わず打ち明けてしまいそうになる……」
「『星色のフィナーレ』のパーティですね」
「そうそう! あそこの美馬様は最高に素敵だったわよね~っ!!」久保は自分を抱きしめて叫んだ。
名シーン投票とは、プレゼントを餌に読者に名シーンを投票してもらう、簡単にいえばアンケートである。久保の肝いりで始まったとはいえ、カラー扱いでもなく地味なスタートだった『新花織高校恋愛スキャンダル』は今や●●誌の二大看板となっていた。
「あたしとしては、ウエディングドレス姿の方を頑張ったんですけどね~。おっかしいなぁ?」
思いがけない結果を聞いて不満げにマリナがこぼすと、久保はからかうように口を横にのばして笑った。
「はっきり言って場数不足ね」
「場数不足?」
「あなたは未婚。だから結婚の生々しさが出てないの。私なら生々しく血が滴るウエディングドレスを描いてあげられたのに~」
久保は一ヶ月前に離婚したばかりであった。原因は夫の浮気。十八も年下の女子大生を妊娠させた挙句「彼女を愛しているから別れてくれ」と土下座されたという。
あんな男はこっちから捨ててやったと久保は笑って話していた。その代わり、久保は、さらに美馬を愛するようになった。二次元の美馬を。
例の写ルンですも、まだ現像せずに大事に持っているらしい。
「いよいよ美馬様もピンチね。私までドキドキするわ」
久保は胸に手を当てた。
「うう、その節はお世話になりました」
花純が目にする美馬の過去ビデオ。それを、どういう映像にしようか困り果てて、久保に泣きつき、久保はなんと『女性が楽しむア◯ルトビデオ』をレンタルしてきて、マリナのために上映会をした。もっとも少女漫画で直接表現するわけではないので、あくまで資料として鑑賞しただけだ。マリナはそういうビデオを観たことが全くなかったのである。
「編集者としてあれぐらい朝飯前だけど、彼氏に頼んだ方が早かったんじゃない?」
「げ」
マリナは真っ赤になって、震えながら小刻みに首を振った。
「無理。絶対!」
「なぜ? 彼氏だって男なら、そういうものを観てるはずよ」
「えっ……」とマリナは言葉に詰まった。シャルルがア◯ルトビデオを?
動揺するマリナを眺める久保の目がきらりと光った。けれど彼女は賢明にもそれ以上この話題については何もいわず、傍のブリーフケースから手紙の束を取り出した。「ところでこれ、先月から届いていた分のファンレターよ」
「わあ!」マリナは即座に胸に抱え込む。
それは、ざっと見ただけで二十通以上あった。
「う、う、嬉しい。この瞬間のために漫画家やっているんですよ……」
「あなた、まだ一通一通に返事を書いているの?」
「はい。ハガキで」
「イラストまでつけてるんですって?」
「ちょこっと」
「それにしたって大変でしょうに」と久保はため息をついた。「ガリ版でもやったら?」
「道具を買うのも大変ですし」
「それもそうか……」
少し考える様子を見せたあと、「古いガリ版でよかったら、会社にあるかもしれないわ。必要なら貰い受けようか?」
「ありがたいですけど、そんなに何十通もファンレターが毎回来るわけじゃないから」
久保は腰に手を当てて、口を尖らせていった。
「甘いっ! これからもっと売れていくという気概がなくてどうするの! あなただって漫画賞を狙ってるんでしょう?」
漫画賞。読者からの支持をもとに、大御所の漫画家たちが、各出版社ごとにその年に売れた漫画家に与える権威ある賞である。もちろんマリナはまだ一度もこういった賞を手にしたことはない。十四歳でデビューしているから、新人賞はもはや望めない。
「あなたのキャリアなら目指すは大賞ね」
と久保は恐ろしいことをいう。
「原作付き漫画が大賞をとったなんて、聞いたことがないですよ」
「だったら前代未聞の快挙を達成すればいいじゃない」
「はいはい。わかりました。じゃあ、あたしはこれで失礼します。早くネームの修正をしたいので」
立ち上がったマリナはお辞儀をして久保に背を向けた。久保は、マリナの背に向かって、
「明日絶対に原稿持ってきてね!」
マリナは出版社を出て、地下鉄の駅に向かった。力強い真夏の太陽が眩しくて、涼しいビルから出てきたばかりの体にきつかった。
暑い……。今年こそはクーラーを買おうかしら。そうしたら汗が原稿に落ちる心配もしなくていいし。
歩きながらそんなことを考えていたマリナは、おかしくなった。だったらクーラー付きのマンションに引っ越した方が早い。別にあのアパートにこだわる理由はどこにもないし。
冷房の効いた電車に乗って家に帰ると、うだるように蒸し暑い部屋でシャルルが待っていた。
「おかえり」
「来ていたの?」鞄をおろしながら、靴をぬいでマリナは部屋に入った。
汗ひとつかいていない涼しい顔でシャルルは本を読んでいたようだった。何かの専門書のような、分厚い本。
マリナは、シャルルがベッド――マリナの部屋の場合は布団だが――以外で汗を流しているところを見たことがないのだ。パリより日本の夏は蒸し暑いのにどうしてかしらと思って尋ねると「呼吸数を抑えているから」と彼はなんなく答えてしまう。呼吸数を抑えるってどうやるの? 変な人。
「急に予定があいたからな、迷惑だった?」
「迷惑じゃないわ。留守にしてごめんね」
「謝ることはないよ。オレが君の顔を見たかっただけ」
恥ずかしいことを正面切ってよくもいうと、マリナはこそばゆい思いをしながら、流し台で手を洗って、鞄を手に部屋の中へいった。
「せっかく来てくれたけど、急ぎの仕事があるの。やっていいかしら?」
シャルルは気にした風もなく、顔を上げて「もちろん」と微笑んだ。
「君の仕事ぶりをチェックしてやるよ」
「嫌だ。なんか、怖いわね」
シャルルの目は優しくて、マリナは、はにかんでちゃぶ台の前に座った。隣のシャルルからは芳しい香りがする。シャルルが愛用しているゲランの香水の香り。
鞄から原稿を取り出し、早速仕事に入った。
「美馬の漫画か、人気はどう?」
「自分で言いたくないけど、わりといいわ」
もらってきたばかりのファンレターの束を見せると、シャルルは我がことのように喜んだ。
「話の筋はかなり盛り上がってきているのかい?」
「うん、かなりね。あと半年ぐらいで、最終回かな」
マリナは指先に意識を注ぐよう努力した。しかし、シャルルは本人がいった通り、じっとマリナの手技を凝視し、マリナはその視線が気になってなかなか集中できなかった。
チラチラと自分の方を見るマリナに、シャルルはいった。
「オレのことは気にしないで続けて」
「うん……でも……」
マリナは居心地の悪さを感じて、身をすくめた。しかし仕事はやらねばならない。明日には直した原稿を持っていかねばならないからだ。
「美馬と女の絡み合い?」
シャルルが驚いたようにいった。マリナは手元を動かしながら「うん……」と答えながら、彼氏だってア◯ルトビデオを観ているはず、と言われたことを思い出してドキッとした。
まじまじとシャルルの顔を眺めた。やっぱりシャルルはそういうのは観てない気がする。死体解剖ビデオなら毎晩鑑賞してそうだけど……。
「なぜ花純は美馬のビデオを観るような事態になったんだ?」
シャルルは新花織シリーズについてまったく興味がなく、これまでもマリナが仕事をしている原稿を冷やかして見ている程度だった。マリナは今号のストーリィを説明した。
「これが花純ちゃんと別れた原因なの」
「へえ、それはそれは」
「美馬さんから聞いてなかったの?」
「そんなこと聞いてないよ」
意外な気がしたが、男同士とはそんなものかとも思った。
問題のコマは、ざっくりとした輪郭を描くだけのネームなのに、それすら筆が進まなかった。美馬と花純は幸福な恋人同士となっている。だが、過去の傷は消えない。それをほじくり返すようなことをしていいのか。マリナは決心がつかなかった。むろん美馬と花純からの了承は得ているのだが。
「どうした? 手が止まってるぞ」
マリナはちゃぶ台に手を下ろして、深いため息をついた。
「だって、こんなシーンはできれば描きたくないんだもん。こんなことさえなかったら、もっと早く二人は幸せになれていたのに……と、どうしても思っちゃって」
「ふうん」とシャルルは頭を起こした。「君の気持ちはわかるが、このビデオ事件がなくても、どのみち、二人は一度は別れていたと思うぜ」
マリナは驚き、シャルルを見た。息がかかるほどの至近距離に、冷ややかな顔のシャルルがいた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、美馬がビデオの女と関係があったのは、花純と出会う前のことだろ? ビデオを撮影したのも花純と出会う前。だが花純は、過去を過去と割り切れない典型的な粘着質タイプの女性だ。ビデオがなくても美馬の昔の女の存在を知った瞬間、ジ・エンドさ」
「ひどいことをいうのね」
シャルルはのけぞって肩をすくめ、後ろ手を畳についた。そして右手のひらを上にむけて、ひらひらと空中に泳がせた。
「オレは至極まっとうなことを言っていると思うけどね。実際花純は嫉妬で耐えられなかったのだろう? 別れるというのはそういう場合のもっとも手早い自己防衛手段だからね……」
徐々にシャルルの声は小さくなっていき、彼は顎に手をあてて何かを考えはじめた。彼が何を考えているのかわからず、マリナが見つめていると、シャルルは突然マリナに向き直り正座をした。フランス人だが、シャルルの正座は美女丸のように美しかった。
「マリナ、ありがとう」
「え?」
あの時のことだよ小菅のあとの、とシャルルは顎を引いた。虚をつかれたマリナは「ああ……」とつぶやいた。
高次脳障害になり、クリームヒルトというプラハ城主の女性と婚約関係を結んだ一件のことだ。
「恋人というものは信じ合うことで成り立っている。ちょっとでも相手を信じられないと思えば、関係はおしまいだ。そこが結婚とは違う。ビデオ映像は確かに衝撃的だが、花純は二つの道が選べた。だが花純は美馬を信じない道を選んだばかりか、自分のせいでこうなったと苦しむ美馬を受け入れず彼を苛み続けた。――
でもマリナ、君はオレを許してくれたね。許されなくても当然だと思っていたから、本当に嬉しかった。ありがとう。君を愛してよかった」
シャルルは白いほおを喜びでうっすらと染め、灰色の瞳をわずかに潤ませていた。その微笑み! シャルルのその微笑みは、雨上がりの庭で、凛と天をあおぐバラの蕾を連想させた。
「ん? どうした?」
微笑んだまま首をかしげるシャルルに、マリナはこわばった笑みを返して首をふった。
「なんでもない……」
ああ、どういうことだろう。どうしてシャルルはこんなにも清々しく笑えるのだろう。
シャルルはマリナに他の男を部屋に入れるなと命じた。それはマリナを信じていないからではないか? 彼の論法からすると、その時点ですでに恋人関係は破綻しているはずなのに、自分の不信は正義か?
マリナはこれらのことに加えて、つぎのことを思い巡らせた。
あたしは――プラハの一件を根こそぎ許したことになってるわけ? 待っているあたしを忘れて他の女性と婚約して一緒に暮らしたくせに。
万が一あたしがあのことを蒸し返して責めたら、シャルルはどうするのだろう?
「あっと仕事の邪魔をしてごめん。さあ、続けて」
マリナがハッとして顔をあげると、すでにシャルルは気だるげに足を伸ばして、長い髪を垂らして頭をかしげ、本に目を落としていた。
***
翌日、マリナは出版社で久保との打ち合わせを終えた後、シャルルと待ち合わせをして、パリ行きの飛行機の離陸時間までデートを楽しんだ。
二人はタクシーでアパートまで戻り、シャルルだけが再び車内に乗り込んだ。
ドアの取っ手を手に、シャルルはいった。
「またくる」
「いつ頃になりそう?」
「週末かな」
「あと四日しかないじゃない。そんなんで、アルディ家の仕事はちゃんとできているの? マドモアゼル・ヒスに怒られてるんじゃないの?」
マリナが笑うと、シャルルはすねた顔で彼女を睨んだ。
「うるさい。それ以上笑うと、無理やりパリに連れて帰るぞ。いつだってそうしたいのを我慢してひとり寂しくパリに帰ってるんだってことを忘れるな」
シャルルの口調はやや冗談めかしていたけれど、その目は真剣で、マリナは笑うのをやめた。
「ごめんね」
シャルルは手を伸ばして、子供を叱るようにマリナのほおを指で弾いた。マリナは一瞬硬く目を閉じた。
「わかったらいい。じゃ、飛行機に間に合わなくなるから帰るけど、本当に週末にくるから」
「待ってるわ」マリナは素直にいった。シャルルは投げキッスをしてドアを閉めた。マリナはタクシーの姿が通りの角に消えていくまで手を振った。そして、車体が完全に見えなくなったところで、ふうっと大きな息を吐いた。
無理しないでいいと言っているのに、どうして無理してまでくるのかな。やっぱり信用されてないのかしら。
とその時、すぐそばの電柱の前に大小さまざまな瓶が詰め込まれたスーパーの袋が置かれているのを右目の端で捉えた。
「――あれ、明日って資源ゴミ? ということは今日は薫との約束の日!? きっと電話は鳴りっぱなしだったんだわ……どどど、どうしよう!?」
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