【愛いっぱいのミステリー、途中のお話】
それは甲府の弾上家。
美女丸のお父さんや妹の美也ちゃん、従兄弟の三人を殺した残虐な犯人は死んでしまい、ほっとした翌日の午前中のことだったの。
トイレから帰る途中のあたしは、血桜堀に面した長い廊下で、しゃがみこんでいる和矢に、出くわしたのだった。
はて?
「和矢、あんた、何してるの?」
和矢の肩越しに見ると、和矢はバケツで雑巾を絞っているところだったの。キュって固く。
なにやってんの?
ともう一度聞くと、和矢は振り返り、青年らしさを残した精悍なほおをポッと桜色に染めて、照れ臭そうに笑った。
「誰にも言わないと誓うか?」
ひそやかな声でささやかれて、あたしは大きく首を縦にふる。
もちろん、あったり前の前田さんよ、信用してちょうだい!
あたしは元気よく誓ったんだけど、和矢はじとっといやらしい目であたしを見た。
「お前が信用しろというと、なんかすげー胡散臭いな」
失礼ねっ!
あたしは一度誓ったことはちゃーんと果たすんだからね、そうでないと口約束だけが頼りのマンガ家で生き抜けないわ。
この道に入って早4年。
水道を止められたときは、公園の水を飲んで耐えしのいだし、食べ物がないときはスーパーの試食コーナーを足を棒にして回ったのよ。
それもこれも、ただただマンガだけに全てを捧げた尊い人生のため。
たとえボロアパートとはいえ、立派に一人で暮らしているあたしのこのど根性を、まだすねかじりのその目でしかと確かめるといいわっ!
自らの名誉と信用をあたしが機関銃のようにまくし立てると、和矢はたまらないとばかりに雑巾を放り出して、その濡れた手で両耳を塞いだのだった。
うわ、バッちぃ。
「わーかった。話すから、もう黙れっての!」
ふん、最初っから素直に白状すればいいのに。
「こいつ、そのうちに口裂けお化けになるぞ」
誰がなるか!
お化けなんていなーいもん。
結局、白妙姫もいなかったしね。
と憤慨するあたしの前で、和矢はちょっと照れ臭そうに頭をかきながら、あたしの耳にそっと口を寄せて、ささやいた。
「あのな。内緒だぜ。実は、オレ、この家を掃除しようと思ってたんだ」
掃除? あんたがなんで?
「弾上家の使用人に就職でもするつもり?」
「バーカ、違うよ」
あたしの頭を指先でコツンと叩いてから、和矢は雑巾を再び手に取った。
長い前髪が風に揺れて、影をはらんだ漆黒の瞳がチラチラと見え隠れし、そんなアンニュイな佇まいの中、何かを言いよどんでから、顎を引いておもむろにクスッと笑って見せた彼は、なんだかとっても魅力的で、男っぽくて、素敵で、あたしは思わず凝視してしまったのだった。
うう。和矢はますますかっこよくなる!
「今回の事件で、美女丸は一気に家族を失っただろ。そりゃあ、使用人たちもよくしてくれると思う。でもやっぱ他人だ。それがわかっているから、美女丸も使用人たちに暇を出したんだ。だから、せめてあいつが気持ちよく暮らせるように、心を込めて掃除してやりたいんだ。亡くなった親父さんや美也ちゃんの魂も帰ってくるかもしれないし」
そういう和矢の顔はとても悲しげで、同じ苦しみを経験した人にしかわからない真剣さがあって、あたしの心を打った。
和矢もマリィちゃんを失ったものね……。
和矢は優しい。
それなのに、あたしったら、恥ずかしい。
「ごめんね」
謝ると、和矢は首を横に振って、目を優しく細めてニコッと笑った。
「よかったら、お前も一緒にやらないか? そのほうがはかどる」
やる!
そうしたら、美女丸が感動して、血桜堀に沈んでいたあの金塊、市に寄付すると言っていたあのお宝ちゃんを少しは回してくれようという気になるかもしれない。
そうしたら一気にあたしはお金持ちよ。
きゃあ、夢見た池田マリナ特集号が現実になる!
「あっ、じゃあ、シャルルも呼んでこようか。二人より三人でしょ」
「あいつはダメだ。見ろよ」
和矢が指差した方向を目で追うと、シャルルは秋の風に白金の髪を見事に遊ばせながら、血桜堀の前で突っ立っていた。腕を軽く組み、右手で口を抑えつつ、どこかあらぬところを見つめている。
それはもう完全に庭の置物、弾上家の新しい家宝。
憂いがちな白い顔も、遠くからでもわかるブルーグレーの瞳も、均整のとれた体も、ああ、何もかもがとっても美的。究極の美だわ!
このまま持って帰って、永久にマンガのモデルにしてしまいたい!
「シャルルが考えている。ああなったらダメさ」
「まだ、何かあるのかしら?」
「金塊が他にもあるのかもね」
和矢の言葉にあたしは一気に色めき立ち、すぐさまシャルルの元へ急行!
……しようとして、和矢に首根っこを抑えられてしまったの。
わーん、離せ!
「お前、今、雑巾掛け手伝うって言ったばかりだろ」
でも、シャルルを手伝った方が金塊に近いわよ。
もし雑巾掛けしている間に、美女丸が帰ってこなかったらどうするのよ?
ただ疲れるだけじゃない。無駄よ。あたし、無駄って、嫌い。
そういうと、和矢は心の底から呆れたというため息をはいた。
「最悪だな。お前って」
あら、自分に正直と言ってほしいわ。
「ほしいものをほしいと言って何が悪いのよ」
「生きるのが楽そうだよ。お前は」
そういうと、和矢はあたしを放り出して、一人で雑巾掛けを初めてしまったのだった。
あたしは秋の風に吹かれながらしばし思案。
さて、庭のシャルルか、廊下の和矢か。うーん、どっちにつくのがとくだろう?
考えた挙句、あたしは足で雑巾掛けしながら、頭で金塊のありかを考えることにして、直後、帰ってきた美女丸に、目から火花が出るほど殴られたのだった、わーんっ。
ちなみに、この日の午後、美女丸が犯人の部屋の押し入れから取り出した石で、あんな恐ろしいことが起こるなんて、この時のあたしは思っても見なかったのよ、ホント!
END