《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
5
コンコンとノックの音がした。
「麻里奈? 入るわよ」
そっと扉が開いて、いつもよりも濃い化粧の由里奈が顔を見せた。つつっと足を踏み入れて、パタンと扉を閉めるが否や、すぐさま感嘆の声を上げた。
「ふーん。馬子にも衣装ね」
「由里奈ちゃんたら、口が悪すぎ」
「あはは、ごめんごめん。でも、似合ってるわよ」
「……ほんと?」
「本当よ。とても奇麗よ、麻里奈」
マリナは鏡の中の姉に向かって笑った。
「よかった」
再び扉がノックされて、係員が「あと三十分です」と知らせにきた。由里奈が「わかりました」と愛想良く応じた。係員が由里奈の顔を凝視している様が、鏡越しにわかった。
姉は今をときめくニュースキャスターだ。紺色のドレスとシフォン生地のベージュのボレロを上品に着こなしたその姿は、普通の女性とは違うオーラを放っていて、人目を引く。いつだっただろう。音楽祭の司会で身に着けていた大胆な黒のカクテルドレスも、最高に似合っていた。でも、容姿だけではない。きっと、姉の持つ内面の良さが人を惹き付けるのだと、マリナは思った。
由里奈はボレロの形を片手で整えながら、そばに近寄って来て言った。
「父さんと母さんも大丈夫よ。ちゃんと来るから」
「恵里奈は?」
途端に、由里奈が眉をしかめる。
「うーん……。あの子はやっぱり無理だって。しかたないわよ。だって、知らせたのが一週間前だもの。急すぎて」
「そっか。会いたかったな。ニュージーランドに行っちゃってから、一度も会ってないもん」
「そのうち会えるわよ。だって姉妹だもの」
「そうね」
「そうよ。感傷的になるなんてあんたらしくない。やめなさい」
マリナは苦笑いした。それから、おもむろに鏡に向かって頭をぺこっと下げた。
「由里奈ちゃん、ありがとう」
「なあに、いまさら?」
「だって、全部、由里奈ちゃんのおかげだから」
由里奈は顔を背けて右手を振り上げた。
「心配しないでいいわ。これは商売だから。覚悟しなさい。利子は高いわよ」
「え――っ? かわいい妹から利子取るのっ?」
「もちろん。渡る世間は鬼ばかりってね」
「それ、由里奈ちゃんの局のドラマでしょ?」
「あら知ってた? 今、大ヒット中なの。ぜひよろしくね!」
由里奈はマリナの両肩に手を置いて、鏡を覗き込むようにニカッと笑った。つられてマリナも笑った。
「それよりも由里奈ちゃん。今日はユーゴさん、来るっ?」
由里奈の表情が凍り付いた。
「招待してって、あたし言ったでしょ? ユーゴさんに会いたいわっ! テレビでは見たことがあるけど、どんな人かしらっ!?」
「……来ないわ、遠くに行ったから」
「え?」
驚いてマリナが振り返ると、由里奈がマリナの肩から手を離して、側のテーブルのグラスを手に取っていた。コポポと水をピッチャーから注ぐ。
「遠くって? ユーゴさんはどこ行ったの?」
「う――――んっと、うーんと遠くよ」
そのまま由里奈はグラスの水を静かに飲んだ。マリナは黙って姉を見つめた。どうしてか、それ以上、ユーゴのことは聞いてはいけないような気がした。
何もかも完璧な姉。昔から由里奈はそうだった。美人で優秀なのに、飾らない人柄が誰からも愛されていた。器用に生きて、上手な恋をして。大学を卒業後、テレビ局に就職して、ニュースキャスターになったと告げられた時は、さすがと思ったのと同時に、ほんの少し、ねたましかった。
女としての格の違いを見せつけられた気がしたから。
シャルルと和矢のことを問答されたとき、反発の思いがなかったと言えば、嘘だった。
そんな姉にも恋の傷があるのだろうか。
苦しくて眠れない夜を過ごしたことがあるのだろうか。
「……麻里奈、本当にいいの?」
突然、由里奈が真剣な顔で言った。
「もう何度も聞いたけど、もう一回だけ聞くわ。後悔しない? やめるなら今のうちよ。私がすべてやったげるから、あんたは『やめる』って決心するだけでいいから」
「………」
「あんたの決めたことに水をさす気はないけど……でも、いくら何でも」
その時、扉がまたノックされて、係員が告げた。
「花嫁様、お時間でございます」
マリナは姉の顔を見て、笑いながら言った。
「タイムリミットだって」
「……そうみたいね。あんた、体調は大丈夫なの?」
「うん。平気」
「ならいいけど」
まだ心配げな由里奈にもう一度「大丈夫!」と念押ししてから、マリナは純白のブーケを持ってゆっくりと立ち上がった。扉に向かって歩きながら、後ろを振り返る。
「本当にありがとう、お姉ちゃん」
「……いいって。それよりも一応ここは海の上よ。少し揺れるから、足元に気をつけてね」
マリナは「うん」と頷いて、係員に従って扉から出た。
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