《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
6
礼服を着た父親が待っていた。何も言わずに突き出された左腕に、マリナは右手をそっとかけた。
「……父さん、ごめんね」
「今さらなんだ」
「あたしって、親不孝ばっかりしてるね」
父親は小さな頃からよく見慣れたひきつり笑いを浮かべた。
「親父が言ってた。親は子供の親不孝を、三つまでは許すべきだと」
「親不孝を三つ?」
「そうだ。おまえはもう使い切ったぞ」
「あたし、そんなに親不孝したっけ?」
「親不孝をした側は忘れているものだ。中学卒業したばかりで家を飛び出したのが一つ目。いきなりパリで暮らすと言い出したのが二つ目。これが三つ目だ」
マリナは苦笑した。確かに三つだ。漫画家になると言って家出同然で飛び出したのが十五歳のとき。シャルルが来てパリで暮らすと宣言したのが二十二歳のとき。そして、突然、式を挙げると言い出したのが一週間前。目玉が飛び出しそうなほど驚いた顔を見せる母親と対照的に、父親はほとんど何も言わなかった。いつもそうだった。マリナは父親の顔をじっと見つめた。
「だから、これから先の親不孝は許さない。いいな?」
いつの間にこんなに年を取ったのだろう。目尻の皺が増えて、シミが濃くなった気がする。髪の毛にも白髪が混じって、柔和な顔が一層優しく見えた。
「……じゃあ、これからは親孝行するねっ」
父親の左腕を強く掴んだ。
「期待しとらん。行くぞ」
「うん」
係員が扉を開けた。結婚行進曲ではなくて、リクエストしたのはアヴェ・マリアだ。マリナは父親に従って、純白の道を歩き始めた。
白いバラと絹のリボンで仕切られた会衆席には、なつかしい顔が見えた。引っ越しを繰り返した中で出来た千人を超える友達名簿の中から、姉の助言を得て招待したのは、ほんの一握りだった。
不思議そうな声が会衆席で上がるのがわかる。
その声は次第に大きくなって、式場全体に広がった。マリナはかまわずに父親に従って進んだ。十字架が近づいてきて、高壇の目の前まで来たとき、二人は足を止めた。
「麻里奈、本当にいいのか?」
父親がささやくような小さな声で言った。
「……やめてもいいんだぞ。父さんが何とかするから」
「ありがとう、父さん。大丈夫、これは、あたしがしたいことだから」
「でも、おまえ……」
「それでもいいの」
マリナはきっぱりと言った。父親が一瞬じっと見つめた。それから、ふぅと大きく息をついて、ポンとマリナの肩を叩いてから、母親の待つ一番前の席に向かった。マリナは十字架を見上げた。
高壇に立つ白い式服姿の牧師が厳かに言った。
「それでは、これより結婚式を執り行います」
瞬間、式場がざわついた。立ち上がろうとする会衆を、由里奈が制する声を聞きながら、マリナは牧師を見つめた。牧師は穏やかに頷いた。
「花婿はどうしたんだっ?」
会衆の中から声が上がった。牧師が言った。
「賛美歌167番を」
オルガンが流れ始めた。マリナは目を閉じた。
今思えば、沢山の人に無理ばかりを言った。まずは姉、由里奈の全面的な協力があった。精神的にも金銭的にも支えてくれた姉の支援がなければ、何も出来なかった。それから、時代が加勢してくれたと言えた。ここ、山下公園の氷川丸での結婚式は、昔は人気があったが、今はあまり流行らないらしい。だから、一週間後という急なスケジュールでも可能だった。マリナがここにこだわったのは理由があった。どうしてもここが良かった。
すぐさま招待状を作って、両親を説得した。それから、もうひとつだけすることがあった。
招待状を国際郵便でパリに送ることだった。
「結婚式とは、神の前で愛を誓う行為です」
賛美歌が終わると、牧師が静かに語り始めた。
「列席の皆様はその立会人となります。今、神のみ前で愛が誓われます。この誓いが終生守られますように。そして、この誓いによって人生が祝福されますように」
その時、後ろで扉が乱暴に開く音がした。
「マリナ……っ!」
振り向くと、息せき切った和矢の姿が見えた。由里奈が慌てて走りよっている。
「おまえっ、何をやってんだっ、やめろよっ!」
和矢は由里奈の制止を振り切るようにして、叫んだ。
「シャルルが来るわけないだろっ!」
マリナは唇を噛み締めた。白いウェディングドレスのシルク生地に透けて、真っ赤なハイヒールのつま先が覗いていた。
三日前にアルディ家に招待状は届いているはずだ。新郎名に『シャルル・ドゥ・アルディ』と自分の名前が冠された招待状を見て、シャルルはどう思っただろう。山下公園が会場だと知って、何を考えただろう。天才の彼には簡単すぎる謎だ。賭けともいえた。
あんただけが大好きなのよ。
言葉を越えたその思いを伝えるために。
「池田マリナ。あなたはシャルル・ドゥ・アルディに永遠の愛を誓いますか?」
耳を澄ませた。和矢以外の物音は聞こえなかった。
わかってる。あたしは賭けに負けたんだ。
でも、悔いはない。これは自分なりのケリの付け方。シャルルを傷つけて、和矢を巻き込んだ中途半端な自分とサヨナラするために、今日という日をあたしは踏みしめて生きる。
マリナは熱くなる喉の奥を我慢して、顔を上げた。
「誓います」
瞬間、オルガンが鳴り始めた。牧師と視線を交わして、マリナは一瞬うつむいてから、くるりと会衆を向いて「みんな、今日はありがとう!」と満面の笑顔を見せた。
一人きりの結婚式が終わった。
next