《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
10
この手を取れば幸せになれる。
和矢はそれ以上、何も言わずにただ頬を拭ってくれた。右手の掌に指輪の箱を持ったまま、両手の親指で。あたたかくて、優しい指だった。
和矢が優しくなかったことなんて、たった一度しかない。
三年前の冬。初雪の翌朝。
『オレたち、もう別れてるから』
彼のベッドで目が覚めた途端に、投げつけられたあの言葉は忘れられない。死んだ方がましだと思いながら、服を着て、彼の家を飛び出した。雪のために遅れがちな東海道線に乗りながら、涙が出るのを止められなかった。
部屋に閉じこもって、一週間が過ぎ、二週間が経った。和矢からは何の連絡もなかった。手元に残ったのは、膨大な彼との思い出と、パリ行の日付のない航空券だけだった。
どうして別れると言われねばならないのか。
あれは和矢の優しさだったんだ、ということを理解するのに、それから一ヶ月かかった。
渡仏を決意したのは、オープン券の有効期限が切れる直前の三月末だった。
「シャルルを思ってるあたしでもいいの?」
マリナは和矢を見つめた。
「ああ」
和矢は強く頷いた。
「いいよ」
「本当に?」
「本当だ」
「一年経っても二年経ってもシャルルを好きかもしれないわよ?」
「かまわない」
「十年後も? 二十年後も?」
「ああ」
「百年後も? お互いに死んじゃって、お墓に入っても、あたしの心はシャルルのものかもしれないわ。それでもいいの?」
「わかってる」
和矢は念を押すように、強い口調で言った。周囲で下品な冷やかしの声が上がった。酔いの回った中年おじさんのグループらしい。和矢は身動き一つしない。やがておじさんたちはつまらなさそうに、近くの長い髪の女性へ興味の対象を変えた。
「それでも、おまえが欲しいんだ」
そう言いながら、和矢は微笑んだ。マリナはそんな彼をじっと見つめた。頬を拭っていた和矢の指先がいつの間にか優しく広がって、顔全部を包み込んでいた。滑らかなビロードの角張った感触と一緒に。
マリナは俯いた。
この手を取れば幸せになれる。
そうよ、取ればいい。
シャルルは来てくれなかったのだから。
「……まいったなぁ……」
「マリナ?」
和矢が顔をのぞき込んで来た。マリナはえへ、と笑った。
「さすがに今、あたしも弱ってるから、そう言われるとふらふら~っといきたくなるわ。でも、数時間前に永遠の愛を誓ったばかりなのよね。いいかげんにしろって、神様にぶん殴られそうだから、やめとくわっ!」
「マリナ……」
「それに和矢。あんたは不実な男なんかより、優しい男の方がお似合いよ」
和矢が中腰のまま、動きを止めた。そのとき、船の営業時間終了十五分前を告げるアナウンスが甲板に鳴った。マリナはスピーカーを振り返った。
「もう終わりですって、この船。下りないと」
途端、和矢に腕を掴まれた。
「待てよっ! まだ話は終わってないだろ!」
「終わりよ。あんたには、もう二度と会わないわ」
「な、ん…っ!?」
「じゃあね」
マリナはきっぱりと言うと、和矢の手を振り払っていきなり走り出した。
「マリナっ!?」
マリナは甲板の一番前のポールに飛びつくと、そこにぶら下げてあった浮き輪型の救命用具を掴み取った。甲板の向こう側にいた由里奈もびっくりしたように駆け寄って来た。
「麻里奈、何をやってるのっ!?」
「やめろっ! 何をする気だっ!」
マリナは浮き輪を片手で抱えたまま、すばやく甲板の柵によじ登って、大声で叫んだ。
「近寄らないでっ!」
和矢も由里奈も息を飲んだように、数歩手前で立ちすくんだ。マリナはよいしょっと柵の手すりに跨った。周りから悲鳴があがり、大勢の船員が一斉に駆けつけてくる。乗客達が遠巻きに見つめる中、船長とおぼしき中年男性がドスのきいた声で「そこから降りなさいっ!」と叫びはじめた。無視した。夜風を強く感じた。
「麻里奈っ、やめて! 滅多なこと考えないで…!」
由里奈が懇願にも似た声を震わせる。マリナはやれやれと首を横に振った。和矢がハッとしたように目を上げた。
「マリナ、おまえ、まさか……っ」
「和矢、みんなに説明してくれない? あたしは別に死にたいわけじゃないって。この海はフランスに通じてるでしょ。浮き輪があれば沈まないわ。だから泳いでいくの」
「………!」
「異人さんが迎えにきてくれないのなら、こっちから行ってやるわ」
マリナは右足をプランと伸ばした。
「赤い靴だし」
そう言ってから、夜の海に顔を向けた。イルミネーションを映して、七色に輝いていた。その向こうには白く浮かび上がるベイブリッジが見えた。あの橋を眺めながら彼に抱かれたのが、百年も前のように思えた。和矢の声が聞こえた。
「おまえ、おなかの赤ん坊が…!」
「それ、誤解よ。ただの急性胃炎。あのときハンストしてたから」
「胃炎っ!? なんで言わなかったっ!?」
「あんたにわざわざ妊娠してませんって言うの? なんのために?」
和矢が目を見開いた。マリナは失笑した。
そう。そんなことがあったら、すぐにパリに知らせただろう。けれど、知らせたからといって、何かが変わっただろうか。赤ちゃんをたてにとって、彼を動かしても意味がない。不実な心がそんなことで容易に動かないことを知っている。
また夜風を頬に感じた。
この風はパリでも吹いているだろうか。それならいい。
「麻里奈、お願いだから、やめて……っ」
「大丈夫よ、由里奈ちゃん。あたしは竜の島ってすごい崖からも飛び降りた経験者だから、これくらいへっちゃらよ」
そう言いながら、首に浮き輪をくぐらせたその瞬間だった。
「やめろっ!!」
シャルルの大声がした。
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