《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
11
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954番。
二年前の春、パリのアルディ家を訪れたときの面会番号だ。
二ヶ月はかかると言われた。もっとはやく、と噛み付いても、お仕着せの使用人は首を振るばかりだった。それ以上、誰も日本語で話してはくれなかった。
いつかの方法で屋敷の奥に忍び込んだ。シャルルの執務室はすぐに見つかった。やはりいつかのように、シャルルは仕事をしていた。庭から窓をコンコンと叩いた。シャルルが振り返った。
「……マリナっ!?」
それが第一声だった。そのあと、窓から飛び出して来た彼は、珍しくたどたどしい日本語で、来訪の理由を聞いてきた。素直に答えた。たちまち凍り付いた。
つん、と頬をつついてみた。反応がない。まるでよく出来た彫像だ。
あ、発作だ。
そう思った瞬間、懐かしくて、泣きそうになった。
芝生の上によいしょっと座り込んだ。
復活するまで、根気よくつきあうつもりだった。
シャルルの仕事相手や秘書らしき人々が慌てていたけれど、無視した。
夜が来て、冷えてきた。使用人が何人も入れ替わり立ち代わり、庭にやって来た。シャルルに声をかけたり、毛布をかけたり、湯気のあがるスープを持って来たりしていたけれど、どれも無駄だった。彫像は美しいままだった。白金の頭にズボッと毛布を被せておいてから、代わりにあたたかいスープをいただきつつ、ずっとそんなシャルルを眺めていた。
ふと夜空を見上げた。
しばらくすると、突然さぁっと流れ星が落ちた。
一つ。また一つ。
やがて、数えきれない星の行軍となった。
思わず立ち上がった。
何もない暗闇に生まれて、白い尾を靡かせながら、地球に向かって星達は次から次に駆け込んでくる。うわぁ、奇麗だなぁ…と息を飲んだ途端、ぐいっと後ろから力任せに腕を引っ張られた。
「シャ、シャルルっ!?」
ぎゅっと毛布ごと強く抱きしめられて、シャルルのささやきを一言だけ聞いた。
「……ありがとう、オレのファム・ファタル」
その夜が、数十年に一度の流星群の夜だと、後から知った。
星が奇麗で、シャルルに会えて、こうして心を通わせて。
なのに、どうしてこれほどに泣けるんだろうと思うぐらい、切ない夜だった。
*
シャルルの声。
間違えたりしない。
柵にまたがったマリナは、勢いよく振り返った。和矢も由里奈も周囲を見回した。
「……え…っ!?」
全員が絶句した。
「シャルル、おまえ……っ!?」
横を向いた和矢が切れ切れな声を上げる。由里奈は戸惑っている。マリナは浮き輪をかぶったまま首を出した。
「あんた……何やってんの?」
皆の注視を浴びて、シャルルが立っていた。確かにシャルルだ。だけど、一体、これは何だろう。
だって、女性にしか見えない。
腰まで届く長い黒髪。
白い細身のジャケットに同色のインナー、それから、輝く飴色のゆるめのパンツを華麗に合わせて、サングラスまでかけた姿は、まるでどこかのモデルみたいだ。風が吹いて、黒髪が靡いた。そういえばこの後ろ姿は、仄暗い甲板のムーディな雰囲気な中で、何度か目の端に入っていた。一人で海を眺めてたり、酔っぱらいのおじさんにからまれてたり。でも、まさか、シャルルだとは思わなかった。
「おまえ、何のつもりだよ、ふざけんなっ!」
和矢が怒鳴った。
「そんなカッコでずっと高見の見物してたのか!? いいかげんにしろよ! マリナがどんな思いをしたのか、わかってんのかよっ!!」
シャルルは答えない。ただじっと前を向いている。真っ黒なサングラス越しでは、どこを見ているのか、いや、瞳が開いているのかすらわからなかった。
ポールに捕まりながら柵にまたがったままのマリナを中心に、和矢と由里奈、それから少し離れてシャルルが円を描くように対峙していた。その周りには乗客達と船員がいる。
マリナは混乱した。
決死の覚悟だった結婚式。わずかな望みを抱いて、シャルルを待った。式の最中、扉が激しく開かれたとき、シャルルが来てくれたと思った。けれど、それは和矢だった。前を向いて、平静な顔で式を続けたけれど、本当は泣きたいぐらいだった。
そのあと、ひとりで夜の海を眺めながら、思っていた。
シャルルはあたしを捨てたんだ、と。
和矢が真剣なプロポーズをしてくれて、心が1%も揺れなかったと言えば嘘になる。四ツ葉のクローバーが二番目だったと知ったとき、心底怒り、それだけ、彼に引き寄せられた。そこまで思ってくれる和矢が嬉しかった。
それなのに。
どうして、こんなにシャルルでなければダメなんだろう。
自分を笑ってやりたかった。
パリまで本当に泳いで行けたら、この思いも昇華できる気がしていた。
ずっと黙っていた由里奈が口を開いた。
「和矢君、この人、本当にシャルルさん?」
「そうですよ、姉さん。コイツはシャルルです」
和矢が激した自分を抑えるように、由里奈を見た。姉は一度しかシャルルに会ったことがない。ようやく納得したように由里奈は頷きながら、シャルルに向き直った。
「シャルルさん、麻里奈からすべて聞きました」
シャルルは身動き一つしない。
「この子は確かにバカです。結婚式も勝手にしたことですから、あなたが来る義務はありません。でも、あなたはそんなバカな部分もひっくるめて、麻里奈を好きになってくれたんでしょう? なのに、どうしてこんなことができるんですか?」
「………」
「父も母も、それから私も、あなたをゆるすことはできません」
周囲で固唾をのむ声が聞こえる。駆けつけていた乗客も船員達も、目の前で繰り広げられている事態が理解できず、動けないらしい。自動アナウンスとともに、軽やかなメロディが流れて来た。営業終了時間だ。それに呼応するように、夜風がさらに強くなった。
放送が終わる頃、シャルルはよく通る声で言った。
「マリナ、そこから降りろ」
「シャルル……」
端正な唇の左端だけがゆっくりと持ち上がった。
「後悔するだけだ。君の生きる場所は日本だ」
その瞬間、マリナはどうしてシャルルがここにいるのか、悟った。
招待状を受け取った直後に、おそらくシャルルは計算したんだ。ひとりきりの結婚式。それを放っておけない和矢の性格と、その後の展開をすべて。
シャルルは、それを見届けに来たんだ。和矢を選ぶところを。愛してると告げようとも、何度抱き合おうとも、『シャルル・ドゥ・アルディ』の名前を冠した結婚式をしようとも、何をしようとも、最後の最後には和矢を選ぶと信じきって。
これは、彼の壮絶な不信の結実なんだ。
「結局、あんたってそうなのね……」
震えながらそう言うと、シャルルがさらっと長い黒髪を揺らせて、サングラスを取った。
「それでこそマリナだろう?」
十日ぶりに見た彼の顔だった。底光りする青い瞳が夜でも奇麗だな、と思った途端に、視界が一気にぼやけた。
どうしてこんなヤツが好きなんだろう。
やっぱり和矢の手を取れば良かった。あの優しい手を取れば幸せになれたのに。
苦笑するしかなかった。
マリナは手の甲で頬を拭って、すばやく浮き輪を半身に通した。
「先にパリに帰るわ、じゃあねっ!」
ポールから手を離してめいっぱい柵を蹴って、海めがけて飛んだ。
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