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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 17

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。







マリナは成田空港を走っていた。

「シャルルを連れてくるからって言っといて!」

廊下で何度も和矢を殴る薫を見て、マリナは急いで自室にもどると、愛用のポシェットに財布をつっこんで部屋を飛び出した。階段を駆け下り、一階で立ち尽くしていた及川にその一言だけ残して、響谷家を出た。
あとはひたすら走って電車に乗って、成田空港まで来た。
パリに行こう。行って、シャルルに会おう。兄上のことを頼むんだ。兄上はシャルルのことを唯一の協力者だと言った。きっとシャルルなら兄上を説得できる。
アナウンスとともに電車のドアが開くのももどかしく飛び出すと、エスカレーターを駆け上がり出発ロビーに来た。走って、一番手近な受付カウンターに噛み付くように聞く。

「パリに行きたいの! チケットちょうだいっ!」

首に赤と黒のネッカチーフを結んだ受付美人はにこりと答えた。

「本日のパリ行きはすべて出発済みです」
「もうないのっ!?」
「はい。申し訳ありません」
「そんなっ! 何とかしてよ!」
「とは申されましても……」
「じゃあ、明日はっ!?」

カウンター内のパソコンをカチャカチャと打つ。

「満席です」
「何とかならないの!? あたしはどうしてもパリに行かないといけないのよっ!?」

受付美人はちょっと困ったように、もう一度パソコンを操作した。

「……ビジネスクラスでしたら、明日午前十時の便に一席だけ空きがございますが」

マリナは両手を挙げた。一晩くらい空港で寝てやる。

「それでいいわ! それをちょうだい!」
「はい。お支払いは現金ですか? それともクレジットカードですか?」

マリナはポシェットから財布を取り出した。

「現金よ! おいくら?」

彼女はパチっとパソコンを弾いて答えた。

「六十八万七千二百円です」

思わず手が止まった。

「お客様?」

彼女が首をかしげる。

「やっぱりいいわ……ありがと」

ふらりとその場を離れて、とぼとぼと歩き始めた。夜の出発ロビーは閑散としていた。大きなガラスの向こうは真っ暗なのに、照明がやたら明るくてそれがかえって夜を感じさせる。
ロビーの隅まで歩いてきたマリナはさめた色の四角い椅子に座った。

「六十八万かぁ……」

天地がひっくり返っても、そんなお金などない。だいたい財布には福沢諭吉が二人ほどいるだけだ。これなら響谷家で常時確保しているエールフランスのチケットを用意してもらえばよかった。カッコつけて後先考えずに出てきた自分に、もう笑うしかなかった。
目の前を体を寄せ合ったしあわせそうなカップルが通り過ぎて行った。いや、実際しあわせかどうかなんてわからない。けれど、薫よりもしあわせだろうと思った。泣きながら和矢を殴っていた彼女は見たことがないくらい辛そうで―――何もできない自分を呪った。
だからシャルルに会いに行こうと思ったのに、それもできない。
あたし、何をやってるんだろう。
マリナはうなだれた。
少なくとも、自分は薫の一番の親友だと思っていた。だから誰よりも彼女の心を分かっていると。
かつて、兄上を愛していると打ち明けてくれたとき、それから死刑前の兄上への面会の付き添いに指名してくれたとき、嬉しかった。彼女のその信頼に応えたいと思った。薫に何かあるときは一番に駆けつけて、薫のために何でもしようと思った。
それがこれだ。
和矢の方がよっぽど役に立っている。和矢と薫の付き合いの長さは、マリナと薫のそれの十分の一にも満たないのに。
マリナは両手を膝の上で握りしめた。このまま帰りたくなかった。

「こんばんは」

そのとき、頭上で声がして、マリナは顔を上げた。
声も出なかった。

「こんなところで何をしてるの? 夜の空港見学かい?」

目の前のきれいな顔が皮肉げに微笑む。

「やっぱり君は変わってるね。マリナちゃん」

マリナは震えた。―――ああ、和矢の言う通り、やっぱりあたしは夢を見ているのかもしれないと思った。







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