《ご注意》シャルマリ二次創作です。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
あたしは響谷家に連絡を入れて、薫がアメリカに旅立つ日時をお手伝いさんから聞き出した。
今思うと、外部の人間にこんなに簡単に主人の行動を教える使用人なんて怪しいのだけど、その時はただ夢中で「ありがとうっ」としか思わなかった。響谷家は兄上が大変な犯罪を犯したセンシティブな家。個人情報の漏出には特に気を使っている。だから薫の出立日時だって極秘のはずだった。
これがあたしに伝わったのは、あたしへの罠。
今ならわかる。
でも、あたしはその情報に、まるで天国から垂らされた一本の蜘蛛の糸のようにすがって、成田空港に駆けつけたのだった。
エールフランスのファーストクラスカウンターの前で、ゆったりとした灰色のソファに座った薫を見つけた時は、心臓が踊るかと思った。
薫はシャンパングラスを傾けているところだった。
ブラックの細身の革パンツに真っ黄色のダンガリーシャツという、一見するとハチャメチャな組み合わせが彼女の危うい美貌とよく似合っていた。
傍らには飴色に輝くバイオリンケース。
「薫っ!!」
あたしの大声に、薫は飲み物を飲む顔を動かさず、ひどくなまめかしい視線だけあたしに向けた。
不敵に笑って、グラスを唇から離す。
「へえ。来たんだ」
そう言って濡れた口元を押し広げるようにして唇を舐める彼女は、目元がしっとりと潤んでいて、あたりを払うような色気に満ちていた。
あたしはすぐさま薫の元に駆け寄り、ポシェットからパスポートを取り出してそれを突き出しながら言った。
「お願いがあって来たの。あたしもアメリカに連れていって」
「お前さんがアメリカに?」
「うん」
「なぜ?」
冷静な薫の声に、あたしは口ごもる。
和矢に振られたから。
そんなこと言えない。
でも言わなきゃ、薫は納得してくれない。
あたしはちっぽけな自尊心を足元で踏みにじって、精一杯の勇気を振り絞って、どうしてここに来ることになったのかを説明した。
あたしは一昨日、和矢から一方的な別れの手紙をもらった。あたしに失望したという手紙だった。もちろんそれで納得できなかったあたしは横浜に行ったけれど、彼はいなかった。
和矢がどこにいるのか、あたしにはわからなかった。
しらみつぶしに探せばよかったのかもしれない。本郷の東大キャンパスはあたしの家のすぐ近くだ。まずは地下鉄の東大前駅を張り込んでいれば、いつかは会えたかもしれない。
そう、いつかはーー……
実際、あたしはそれをやってみた。東大前の駅に行き、車道のガードレールにもたれて待った。
それから一時間で、あたしは音をあげた。
足が痛いとか、疲れたとかそういうこともあるけれど、それだけじゃない。
心が折れてしまったのよ。
もしここで和矢が現れたとして、あたしは何をいうの?
ごめんねって謝るの?
謝ってどうするの?
和矢は優しいから、そんな風に頭を下げるあたしを見放すことはしないだろう。でもそうやってつなぎ合わされた関係ってなんだろう。あたしは同情で和矢に一緒にいてもらって、そしてあたしはなんで和矢と一緒にいたいの?
失いそうになって、初めて、和矢の価値がわかったっていうの?
それって本当の愛情?
わからなくなったあたしは、家に帰り、布団をかぶって寝た。ちっとも眠れず、ひたすら泣いて、泣きまくった。
そのままうつらうつらで夜明かしした翌朝、思ったのよ。
薫と一緒にアメリカに行きたいって。
今から思えば、あたしは恋愛に臆病になっているのかもしれない。和矢と三年も交際していて、キス以上に進めなかったのは、たぶん……シャルルのことがあったから。
華麗の館で彼とキスをして、将来を約束して、ベットインしたあの事実が、あたしが思っている以上にあたしを拘束しているんだわ。
かりそめにも将来を誓ってしまったんだもの。責任がある。
だからあたしは和矢と先に進むことができなかったんだ。
そう考えたあたしは、シャルルに会わなきゃいけないと思った。
アデュウと拘置所の前で告げられて、きちんとお別れしたつもりでいたけれど、なんていうのかしらね、あたしの中では終わっていなかったのよ。
よくよく考えると、孤独が輝き立つように去っていたシャルルは鮮やかすぎて、かっこよすぎて、映画のワンシーンみたいだった。
そのせいで、あたしはシャルルを忘れられなかった。
好きだからじゃない。
綺麗すぎて作り物みたいだったし、シャルルは絶対にあたしを忘れないっていう、変な確信があった。
だからシャルルの幸せな姿を見届けないと、あたしは自分が幸せになっちゃいけない気がしていた。
一目だけ。
シャルルがハリウッドで生き生きとしているのを見届けたら、あたしも前を向こう。
そして自分の行く先を決めよう。
和矢にもう一度やり直したいと謝るか、それとも一人でしっかりと生きていくか。
どちらにせよ、生まれ変わったシャルルの顔を見ないと、あたしは踏み出せないーー……
あたしの話を聞いた薫は、グラスをテーブルに置いた。小皿からアーモンドを掴んでかじる。ぽりぽりとリスのような小気味好い音。ファーストクラスエントランスに場違いなあたしは立ったままだった。
「ダメだ。連れていかない」
「どうしてよ」
「行きたきゃ、自分の金で行けよ」
あたしはぐっと黙る。未だに三流漫画家のあたしは貯金なんかほぼない。アメリカ行きの飛行機代なんて夢のまた夢だった。
「お金、ないわ」
正直にいうと、
「だったら諦めるんだな」
と薫はバイオリンケースを持って立ち上がり、搭乗口に向かった。あたしは慌ててあとを追いかける。
「待って。連れて行って!」
彼女の服の裾を掴むと、パシッと払われた。その素気無い仕草にあたしは驚き、身を竦ませた。
これは本当に薫?
つい数日前、銀座のパーラーで一緒にパフェを食べた薫だろうか?
「お前さんさ」と薫は立ち止まり、ため息交じりに言った。「いつでも誰かが助けてくれると思うな。自分の道は自分で切り開けよ。少なくともあたしの知っているマリナはそういうやつだったよ。知力も体力もなかったけど、ガッツだけは持っていた。ところが今のお前はなんだい。黒須に振られて、その解決まで他人任せ。シャルルやあたしにすがらにゃあ、自分の恋の始末もつけられないのか? だったら恋なんかやめろ」
さっさと搭乗口に入っていこうとする薫をあたしは必死で追いかけた。
「親友でしょ。助けてよ!」
薫は足を止め、いわゆる流し目の要領で振り返った。
ぞくっとするほど冷たい目。
あたしはびくりとすくんだ。
「親友を切り札にするなよ。あたしゃ、あんたの財布じゃないぜ」
薫は胸元からチケットを出し、係員に出した。係員はそれを受け取り、丁重に金属探知機に案内していく。
「待って、お願い! あたし、大事なものを失ったの!」
探知機のフレームを潜りながら薫が言った。
「でもお前さんは家も漫画もあるだろ? シャルルは何もかも、それこそすべてを手放したんだぜ。アルディ家当主の地位も財産もオート・エコール所長の座も、そしてお前さんへの愛情もすべてだ。そのあいつからさらにまだ奪おうっていうのか? 強欲はカトリックが定める七つの大罪の一つだぜ、マリナちゃん」
バイオリンケースを受け取ると、薫はそのまま中へ進んでいった。
追いかけようとするあたしを、係員が止めた。
「薫、薫!!」
あたしの呼びかけに、彼女は一度も振り返らなかった。
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