《ご注意》シャルマリ二次創作です。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
和矢とはあれ以来、一度だけ連絡をとった。
一ヶ月後、彼から電話がかかってきたの。
「いたのか」
そう一言いって、和矢はため息を吐いた。
そのため息は、安堵したような、がっかりしたような、受話器越しのあたしには彼の考えが全く読めないため息だった。
あたしが薫の元に行ったのを知ってる?
そう思ったけれど、あたしはそれを口にしなかった。ただ、
「突然別れようって手紙をよこすなんて、ひどいわ」
あたしはそういうのが精一杯だった。
「ごめん、本当にごめん」
和矢もことば少なに謝って、あたしたちは互いに沈黙した。
そのまま一分以上無音が続いたあとーー
「ありがとう」
と突然和矢がいった。
「なんのお礼よ」
「わかんないけど」
「わかんないなら、お礼なんて言わないで」
「だな」
と和矢は苦笑してから、続けていった。「でも俺、お前に出会ったことを後悔していない。中学の時も17歳で再会した時も、お前に会えて本当によかった。お前という人間を知らずに生きてきたら、俺の人生は確実に羅針盤が狂っていたと思うから」
あたしは心臓が苦しくなった。受話器を握りしめる。
「ごめん。俺の心が狭くて、お前のことを待てなくて」
「ううん、あんたは悪くないわ。あたしが勝手だったの」
あたしは夢中で首を横に振った。
受話器の中の空気が揺れて、和矢が笑っているのがわかった。
「がんばれよ」
それは不思議な感覚だった。さよならと言われているわけでもないし、嫌いだと罵られているのと違うのに、あたしは明確に和矢との時が終わったのを感じたのだ。
例えば、暑かった夏がいつの間に過ぎていって、朝起きたら空が澄んでいたようにーー
鼻の奥が熱くなった。
「うん。がんばる。あんたこそ勉強を頑張りなさいよ」
「いったな。俺が何の勉強しているかも知らないくせに」
「うっ……。あんたならなんの勉強でも大成するわよ。だから頑張りなさい!」
「ひっで。めちゃくちゃいう」
あたしたちは笑い合った。
「じゃあ」
と和矢が言った。受話器を強く耳に当ててあたしはうなずいた。
「ばいばい。元気でね」
あたしたちは阿吽の呼吸で受話器を置いた。たぶん、同じタイミングじゃなかったかと思う。彼が受話器を置いた音を聞いたわけじゃない。でも、わかるの。
これまで3年間一緒にいた。
体を重ねたわけじゃないし、陶酔の果実を分かち合ったりはしていないけれど、あたしは自分の近くに彼を求めた。同じテレビを見て大笑いしたり、一杯のラーメンを頭を突き合わせて競って食べたり、飛び出して帰ろうとする和矢をサンダルで大通りまで泣きながら追いかけたり。
一緒にいられて楽しかった。
なのに、ねえ、どうしてこんなことになったんだろうね……
受話器を元に戻して、あたしは泣きくれた。
あれから3年。あたしは23歳になっていた。
一円貯金というのを知っている? 毎日一円ずつ貯金するってもの。
それを百倍にして、あたしは一日100円ずつ貯金をした。一年で三万六千五百円。三年かけて十万円ちょっと貯めた。
これはあたしにしてはすごいことだった。
陶器の貯金箱を買った。お金の取り出し口が付いていない、叩き割ることでしかお金を取り出せないタイプものよ。これなら貯められるかなって思ったの。
締め切り前の飢餓状態の時なんか、何度それを叩き割ろうと思ったことか!
あたしは食うや食わずの時でも、一日100円を貯めた。
「行きたいなら自分の金で行け」
「あたしはあんたの財布じゃない」
薫の捨て台詞が、あたしを三年間奮い立たせていたの。
和矢と正式に別れて、アメリカにいく理由は特になくなったけれど、こうなったら意地ね。
見てなさい、薫。
あたしは一人でもアメリカに行ってみせるわよ、わっはっはっ!
シャルルに会えたら「元気?」と笑って挨拶しよう。
ハリウッドを案内してもらって、帰国してから、ハリウッドを舞台にした一大スペクタクルロマン漫画を描くのよっ。
うーん、楽しみっ。
「それにしてもサァ、あいつ、すごい人気だよねぇ」
いつも通り原稿を持って行くと、松井さんはあたしの原稿なんかそっちのけで、新しく刷り上がったばかりの雑誌にしきりに目を落としていた。
「あんたの友達のフランス人だよ。いつのまにかハリウッドデビューしちゃって、今じゃ押しも押されもせぬトップスターじゃない。去年公開された映画の興行成績、あいつの主演作が全米1位2位独占だろう。顔も演技もパーフェクトな男なんて、こっちがやんなっちゃうよね。でも実際劇場でみたけど、作品は面白いんだよねぇ、あんた、観に行った? えっ、行ってないの? うっそ! 今、行ってない人間を探す方が珍しいぐらいだってのにさ。天然記念物!」
あたしは松井さんのシャルルへのこれ以上ない賛辞を、複雑な思いで聞いていた。
シャルルに会って、彼の再出発を見届けたい。
そう思って、三年間、お金を貯めてきた、爪に火をともすようにして。
でもあたしはどうして彼に会いたいんだろう?
考えると、よくわからなくなってきた。
生き生きとしたシャルルを見て、安心したかったから。
それだけなのに。
松井さんの持っている雑誌の表紙にはシャルルがいた。最先端のジャケットを着て、少し肌を露出させながら、前髪を頭頂部までかきあげて、アンニュイな表情を浮かべていてこちらを斜めに色っぽい眼差しで見つめる彼は、あたしの知っているシャルルとは別人だった。
シャルルはこんなんじゃない。
シャルルはもっと人生に退屈しているのよ。
自分に酔っているような、こんな顔をするような男はシャルルじゃないわ!
「知ってる? あいつ、女優のエバ・スケールと噂になってるよ。深夜のホテルで密会してるんだって。エバって全世界の恋人って言われてる女優だよ。すげーよね。綺麗さの釣り合いが完璧っていうかさ。あの二人が結婚して子供を作ったら、目が潰れそうなほど綺麗な子が生まれそうだよね、そう思わない?」
あたしは曖昧に頷きながら、ふと思った。
シャルルが生まれ変わりたいってこういうことだったのかな。
綺麗な人と出会って、綺麗な子供をもうけて。
シャルルが家庭に恵まれなかったのは、よく知っている。
だから彼が家庭を求める気持ちは痛いほどわかるのに、釈然としないものを感じるの。
どうしてかしら?
「原稿はこれでいいよ。オッケ」
いつの間にあたしの原稿を見ていたのか、松井さんがテーブルの上にばさっと原稿の束を置いた。
きっと原稿のチェックをしていた時間は2分くらい。
いい加減なものねと思うけれど、所詮300ページ以上ある別巻のラストに掲載される20ページ以下の小作品なんてこんなものかもしれない。
15歳でデビューして8年。
あたしはいつまで経っても三流以下のホームレス漫画家だった。
覚えてる?
あたしは17歳の時に専属契約を切られてるの。
松井さんがあたしを使ってくれているのは、松井さんの情け。だからあたしは自分の働き場を持たないホームレス漫画家ってことになるのよ。
もし松井さんが異動にでもなったら……
あたしの漫画家としての命はそこで終わる。
「じゃあ、これ原稿料」
渡されたお金を手に、出版社を出ると、夕焼け空がビルの間に見えた。
しばしあたしは空を眺めていて、やがて決意した。
アメリカに行こう。
抱えている仕事は終わったし、お金は大丈夫だ。
この原稿料と貯金箱を足せば十五万はある。
行ける!
あたしは勢いよく歩き出し、確か旅行代理店があったなと思いつつ、その店を求めて、御茶ノ水の駅に向かった。むせ返るような熱気が人混みの中に荒れていて、その先に黄昏に染まるビル群が天高くそびえていた。
御茶ノ水駅前の旅行代理店で、あたしはシャルル ドゥ アルディに会いたいから渡米したいと相談した。
前髪をまっすぐに下ろした可愛い感じのする受付の女の子は、最初キョトンとした顔をして、すぐに「ああ」という営業スマイルを作った。
「シャルル ドゥ アルディですね、かっこいいですよねー」
こんな初めて会う年下の女の子に、シャルルのことを呼び捨てにされて、あたしはなぜか面白くなかった。
でもこれは今では当たり前のことだった。
シャルルは今や世界の大スター。
ロバート・デ・ニーロや、アラン・ドロンがそうであるように、シャルルもまたちまたのひとからはフルネームで呼び捨てにされているの。
それが勲章で、称号であるとでもいうように。
「シャルル ドゥ アルディの新作見た?」っていう感じね。
まさかシャルルの名がこんな風にそこら中で行き交うようになるなんて、あの頃は思いもしなかったと思いつつ、あたしはハリウッドにいるシャルルに会いたいんだともう一度言った。
すると、受付の彼女はにっこり笑って、あたしにロサンゼルス行きのフリープランを進めた。
「送迎なしのフリーパックです。これならホテル以外はお客様が自由に行動できますから、心ゆくまでハリウッドを散策できますし、他の街にいくことも可能ですよ」
「シャルルに会える?」
「さあ」
と彼女は微笑みを崩さず、首をほんの少し傾げた。「シャルル ドゥ アルディの住まいは当方では知りませんので、そこまでは保証しかねますが」
それはそうねとあたしは納得して、仕方なくそのプランを予約した。
来週なら空きがあり、10万でいいというので、即決したの。
そうしてあたしは家に帰り、ハリウッドを舞台にしたスペクタクルロマン漫画の大まかなプロット作りに精を出した。
翌週、出版社にそれを持ち込み、松井さんにOKをもらった。
「いいんじゃない。今までのあんたからは考えられない作風だよね。やってみたら。でも、話の中身がまだ全然できていないけど」
「それはこれから考えます」
「これからぁ !? 何よそれ!?」
目を剥く松井さんをあたしは適当になだめ、アメリカに取材旅行に行ってくるから、帰ってきたら、見事なプロットを提出すると告げた。
「取材旅行? あんたが? 自費で?」
「はい。午後の便でロスに飛びます」
松井さんはまるで化け物にでも出会ったかのような顔をして、あたしを見た。
「まあ、期待せずに待ってないよ」
と訳のわからないことをいう彼に見送られて出版社を出たあたしは帰宅して、家の中をササっと片付け、すぐに成田空港に向かったのだった。
お土産カウンターで虎屋のミニ羊羹を二本買った。
所持金は五万六千五百八十七円。
これで本当にシャルルに会えるんだろうかと不安もあったけれど、とにもかくにも機内でまずい宇宙食みたいな機内食を食べて、毛布をかぶって寝た。
シャルルと薫にあったら、まず一番にお土産としてミニ羊羹を二人にあげよう。
日本の誇る虎屋だから、絶対に喜ばれるに違いない。
その見返りとしてお願いしよう。
ハリウッドで一番美味しいものをどうかお願い、食べさせてっ、とねっ。
next